統計学の甘い蜜に浸ってはいけない

仮説の正当性を証明することは統計学では不可能である

例えば腰椎椎間板ヘルニアがMRIによって確認され、ヘルニアのあるなしと、坐骨神経痛のあるなしを比較検討する。統計学ではヘルニアがある人には有意に坐骨神経痛が起こることが多いと主張する。「関連性がある」とは「関連性がないと仮定すると」ヘルニアがあって、かつ、坐骨神経痛があるという事象が偶然に起こる確率は5%未満、または1%未満でしか起こらないということを言う。この時p<0.05、p<0.01というような表現を使い、ヘルニアと坐骨神経痛は偶然で同時に起こることはまずあり得ない→ヘルニアと坐骨神経痛は必然である→ヘルニアと坐骨神経痛は密接な関連がある。という理論が成立する。ここまでは数学を習ってきた者になら理解できる。帰無仮説が棄却されるなどという難しい言い方を使うが、要するに偶然か必然かを確率的に示すのが統計学である。さて、ここからが問題発生である。
この統計学的な結果から、学者ではない一般の人々は「ヘルニアがあるから痛いのだ」と考えるだろう(学者でさえそう考えている者が多数いる)。だが、統計学ではそれを言ってはならないのである。統計学は関連があることを認めるが、因果関係については述べてはならない学問なのである。なぜなら、ヘルニアがあっても全く症状なしという人が高齢者の半数以上に存在すること。そしてヘルニアが全くないのに坐骨神経痛が強く出ている人も少なくないこと。現実にはヘルニアと坐骨神経痛の因果関係が必ずしも成立しないのである。
もしも、高齢者限定の集団で、ヘルニアと坐骨神経痛の関連を統計学的に調べれば「関連なし」と答えが出る。そしてさらに幼少時代に成長痛で悩まされたことがある人限定で調査すると、おそらくヘルニアがないのに坐骨神経痛があるというパターンも数多くみられ、ヘルニアと坐骨神経痛は「関連なし」と答えが出る。このように、関連性は調査する集団を変えていくと結果も変わる。これほどあいまいな関連性で仮説の正当性を示すことなどできるはずもない。
ここで仮に、坐骨神経痛が起こる真の理由が「神経に加わる張力のせいである」としたとする。ヘルニアが神経を圧迫して痛みが出るのではなく、ヘルニアの突起物が神経の張力を強めるために、椎間孔付近で神経が炎症を起こして痛みが出るということが真実であるとする。すると、高齢者では身長が低下するせいで、ヘルニアがあっても神経はたるんでいるので痛みが来ないということも理解できる。また、背骨の形が悪いおかげで神経がもともと突っ張っている人では、ヘルニアがなくても姿勢の変化で坐骨神経痛が出るということも理解できる。もちろん、ヘルニアがあると、普通の人でも神経はその出っ張りを迂回し、走行距離が延びるために突っ張って痛みが出る。このように3つの事象の因果関係を全て推測することができる。このように、条件をいろいろと変えても関連性が崩れない場合に、初めて因果関係が正当性を帯びる。よって、そもそも条件を変えて比較していない論文で因果関係を述べていたとしても、それは信じる価値が少ない。真実とはとても言えな。
真実は、ヘルニアが神経を圧迫するから痛いのではなく、ヘルニアが神経の張力を高めることが痛みの原因である。よって神経の張力がもともと高い人では、ヘルニアがなくても痛みは出る。ヘルニアがあったとしても高齢者では神経がそもそもたるんでいるので、張力がかからないから痛みが出ない…となる。
基本的に統計学では因果関係を主張してはいけない。が、集団を変えても、逆説の事象を調査しても、整合性が損なわれないようなら、因果関係の推論が真実である可能性が高まるというのが科学的な真実となる。よって因果関係を主張したいのなら事象を変えて例外を調査し、そういった調査でも整合性を示さなければならないというはてしなく面倒な作業が待っている。ところが…
過去の整形外科の教授たちは「ヘルニアが神経を圧迫するから痛みが出るのである」と論文で発表し、それが現在の医学書にも掲載されている。それを図解したホッペンフィールドの解説本も世界中に広まっている。論文ではヘルニアの存在と痛みの存在を統計学で関連付け、「ヘルニアがあるせいで痛みが出る」と言い切っている。統計学を利用して因果関係を語ってしまっているのが現実である。ヘルニアがあれば確かに高確率で坐骨神経痛が起こる。それは科学的に証明できる。だが、「ヘルニアのせいで痛みが出る」という仮説は本来ならば統計学を用いて言ってはいけない。事実それは間違いであり、真実は「神経に張力がかかるせいで痛みが出る」の方が理論整然としている(これは私の理論「脊髄・脊椎不適合症候群」だが)。神経に張力がかかる一つの原因にヘルニアがあり、一つに姿勢があり、一つに脊椎の変形があり、一つに生まれつきの脊椎の形…などがある。よってヘルニアがなくても坐骨神経痛は起こるし、ヘルニアがあっても高齢者などでは坐骨神経痛は起こらない(高齢者の神経根は身長短縮のせいで張力が緩まっているから)。統計学が正しく理解されないためにこうした間違った仮説が蔓延しているという問題を、本来ならば大問題にしなければならない。しかし、この大問題を公表すれば、被害を被る者が大勢出てくる。だから統計学が「因果関係を証明できない学問である」ことは隠されるのが常識となっている。
もう一度いう、統計学は因果関係の正当性を述べるための道具ではない。因果関係はどこまで行っても推測であり、因果関係を統計学を利用して正当化することは非科学的である。

統計学で仮説の正当性が証明できると信じている者たちへ

Wiki ペディアで統計学の仮説について調べてみるとこうある。 「仮説検定とは、ある仮説が正しいといってよいかどうかを統計学的・確率論的に判断するためのアルゴリズムである。」 そもそもこの定義自体が科学者たちに誤解を与えている。仮説がそもそもどういうものなのかを誤解している。
関連性を述べた仮説は許されるが、因果関係を述べた仮説は許されない。それなのに、多くの科学者は因果関係を述べた仮説を提示するという間違った仮説の作り方をしていることである。この誤解により多くの科学者は「統計学では因果関係の仮説を立て、それの正当性を証明できる」と考える→因果関係の正当性を証明できると間違った考えをするのである。因果関係が正しいかどうかなどを確率論では論じることがほぼ不可能に近い。その理由は、人間が考える以上に、因果関係の真実には複雑な条件が何重にも絡んでいるからである。以下のような因果関係は仮説としてそもそも打ち立ててはならないものである。 「雷が原因で豊作」「ヘルニアが原因で坐骨神経痛」「肩こりは筋肉痛が原因」などなど、仮説に因果関係を含めてはいけない。

因果関係の仮説が真実かどうかを判定するもの、科学編

統計学で因果関係の仮説の正当性を述べてはならないという原則は、世界中の人々が認識しておくべきことである。ならば、因果関係の仮説が真実かどうかはどうやって判定するのか?という疑問が起こる。その判定方法を科学編と一般編に分けて述べる。
科学的には、無限に条件を変えて検証し、無限回有意差が出ることで因果関係の仮説の正当性が証明される。一人の学者が無限回数、条件を変えて検証することは不可能なため、結局、何千年と因果関係の仮説が覆らなかった場合にのみ、因果関係の仮説がほぼ正当であることが証明される(それでも100%ではない)。これが科学的正当性の検証というものである。つまり、因果関係の仮説が正しいかどうかは、現在においては証明できない。では、どんな学者のどんな仮説も現時点では信用できないということになるが、それでは科学が発展しないので、唱えた因果関係の仮説に信用度ランクをつける。どのような条件づけを行い、どのくらいの大人数で検証したか、どういう機関で審査されたか、どの文献を参考にしているのかなどなどから信用度ランクを付けるのである。まあ、辛口に言えば、そういった信用度ランクでさえ信用できない。その理由は何度も言うが「因果関係の仮説自体がそもそも単純化、一元論化」されているからである。
仮説を述べた者の論文が信用度ランクを得るにはいくつものハードルが用意されている。まずは世界供用後である英語でなければならないということ。過去の関連論文を全て読破している証拠として「大量の参考文献」を掲載しなければならないことなどなどがある。それらのハードルを越えてはじめて信用度ランクをつけてもらえる。信用度のない仮説は「妄想」として扱われるのみである(ちなみに私の仮説は全て妄想である。しかし、妄想が世界を救うこともあるからおもしろい)。
このハードルは英語を母国語としていない国にとっては重いハードルとなり、せっかく真実に近い仮説を唱えたとしても母国語では世界に相手にされないこともある。もともと仮説はどこまでいっても仮説であり、現時点で正当性を証明することは不可能であるが、それを仮に証明するために審査があると考えてよい。だが、原因と理由は医学においては常に複雑である。その複雑さの真実を紐解けば、「仮説」にならないという茶番がある。仮説としてまとまらないものは論文として発表もできない。よって仮説を論じて出世したいなら「複雑なことは無視する」以外に方法がない。
世の教授たちの論文が稚拙である理由は、功をあせるからである。真実は彼らが一生研究しても答えが出ない。だから簡略化、単純化して仮説を論文化しなければ労力が無駄になる。そうした「功をあせる」欲望が「思慮の浅い仮説が世に出回る」理由となっている。

仮説が真実かどうかを判定するもの、一般編

「しっかり歩けば寝たきりを防ぐことができる」という仮説は、世界中で信じられているポピュラーな仮説である。私は歩くことで脊柱管狭窄症を悪化させ、逆に寝たきりになってしまった患者を多く診療しているが、これは原因と結果の因果関係を誤解した例である。生まれつき脊椎の形態バランスの良い者の多くは、高齢になっても脊椎はほとんど変形せず、そして腰痛もなくすたすた歩いて一生過ごせることを、経験上知っている。寝たきりにならない理由は歩くからではなく、生まれつきの脊椎バランスがよいからという理由に基づいている。たしかに、統計学的には「すたすた歩く高齢者」と「寝たきりにならない高齢者」は実際調査すれば明らかな相関があるだろう。相関があるため「歩くことで寝たきりは防ぐことができる」という仮説は、統計学的に正当性があるような錯覚を起こす。
  事実は違う。真の原因は生まれつきの脊椎形態の丈夫さであり、その結果→すたすた歩ける、→寝たきりにならない、という結果をはじきだしている。すたすた歩くから寝たきりにならないわけではない。それが証拠に、生まれつきバランスの悪い脊椎を持つ者は、歩けば歩くほど脊椎の変形が進行し、取り返しがつかない脊髄・神経系の損傷を引き起こし寝たきりになる。そういう例を私はごまんと見てきた。何度も言うが、統計学では仮説の正当性を言ってはいけない。
  さて、このような一般的な仮説は、その正当性を一般人が判断する。一般人の情報を動かしているのはマスコミであるから、仮説の正当性はマスコミが証明することになる。早い話がマスコミが流行させた仮説は真実化し、マスコミに叩かれた仮説は噓とされることになる。マスコミは人の興味をひくために「より極端化した仮説」「より単純化した仮説」「より驚く仮説」を報道するシステムがある。そして視聴率を獲得するわけだが、このとき、正当性を強調するのは統計学ではなく「肩書き」である。つまり肩書きで仮説の正当性がはじきだされる世の中となっていることを真実として受け止めておきたい。マスコミでは奇抜な仮説を「誰が述べたか?」を重視し、その肩書きで正当性を偽装する。よってインタビューされている人々には必ず字幕が現れ、その人の肩書が掲載される。そこには長、先生、師、博士、教授という語尾が必ずつき、この語尾のおかげで嘘が蔓延する。誓って言うが「より極端化した仮説」に真実が存在することは100%近い確率であり得ない。なぜならば極端化=マイナーを無視する、ことを意味するからである。

仮説が真実かどうかを判定するもの、学者編

統計学的に、仮説が真実に近いかどうかは「同じ研究(推測)結果を導き出す者が多いか少ないか」で評価するという風習がある。同じ答えを導き出す者が多ければ、真実である確率は高くなる。これは統計学的に言って正しい。それは前述した「数多くの異なる条件での検証」をしたことと同じことになるからだ。また自分が発表した論文を引用する研究者が多いことで、論文の正当性が証明されるだろう。つまり賛同学者の数で仮説は正当化される。仮説の信頼度として高くなるが、そうは言っても仮説はどこまで行っても仮説。「仮説はもともと単純化されている」という宿命からは逃れることができないため、将来的にはほとんどの医学仮説は崩れることになる。単純化=マイナー無視=真実ではないからだ。常に言えることだが、「真実はもとお複雑」である。真実は人間の叡智を超えたんが関係の複雑さを持っている。
さて問題は、仮説は政治力を用いると正当化されてしまうところにある。 それは、教授は自分と同じ推測結果を出した研究員に博士号を発行してあげるという政治力を用いることで可能となる。教授はそうした政治力を持つため、配下の研究員が次々と教授の推測を支持する実験論文を発表する。さらに、必ず教授の文献を引用する。すると引用回数で信用度ランクが上昇する。こうして仮説は高い信憑性を偽装することができる。仮説は誰が述べようとも、どこまで行っても仮説…しかしその真実を、教授という権威を用いれば真実武装できる。これが学問の、とりわけ医学界の世界である。

仮説が真実かどうかを判定するもの、学会編

仮説は様々な商業的な経済効果を生み出す。製薬会社の株価さえも大幅に動かすことができる。そしてマスコミを利用すれば、地域で超満員のクリニック経営もできる。仮説を検定するという意味で、賛同者の多さは確かに信用できる。だが、そこに商業目的が加わると、集団で真実がねじ曲げられることにもなる。それが学会である。
私は医学の学会しか知らないが、マイナーな学会は数多く存在する。学会で多人数が持ち寄った推論は真実を偽装するのに十分な力がある。例えばアンチエイジングの分野では次々と抗老化をうたった医薬品が発表されるが真偽は不明である。推論を真実化させるために賛同者が集まるということが行われているということを認識しておこう。

仮説が真実かどうかを判定するもの、芸術家編

人生をかけて作った偉大な作品は人々を信用させるパワーがあることは常識である。歴史に残る芸術品の多くは人々を感動させる。学問も同じである。人生をかけて述べた仮説は正当であると受け入れさせるパワーがある。だからそうした仮説は後世に残る。ダーウィンはキリスト教では禁句とされている進化論を唱え、その仮説をキリスト教が全盛期である時代に発表した。「人間は神の子ではなく猿から進化した」という理論を唱えることはキリスト教国家に対しての反逆にもつながる。その反逆による不利益は国家にとっても計り知れない。ダーウィンが信者たちや国に暗殺されても不思議もないほどショッキングな仮説が「進化論」である。
もちろん、人間が類人猿から進化してきたであろうことは、ダーウィンでなくとも当時の生物学者なら誰もが認識していただろう。だが、そうした仮説に信憑性を持たせることは「死を覚悟する一大事」である。キリスト教を敵に回すからだ。
もし、あなたが当時のダーウィンだったとしたら、どうやって進化論に正当性を持たせようとするか考えてみるといい。答えは一つしか出ないはずだ。命を、人生を賭けることが唯一の方法である。命と引き換えに正当性を持たせるのである。よってダーウィンは無人島に木の船で渡り、本国に帰れる確実性も少ないような場所にこもって研究するということを実行した。「当時の誰にもできない、人生を賭ける、命を賭ける」研究を実行して進化論を発表したのである。私は、このような人生を賭けた仮説は「芸術品」であると考える。だから後世に残るのである。芸術品のような論文は、後世に残るが、それがゆえに、その仮説の誤りは、修正されることなく何百年も伝えられてしまうという悪い面もあることを忘れてはならない。
たとえば、医学を志す者でNetter解剖学図譜という本を知らない者はいないが、彼の解剖学の図、その作品数の多さは、歴史的な画家が脱帽するほどの質と量である。まさに彼は医師免許を持った絵画アーティストである。彼の描いたイラストは解剖学にとどまらず、生理学、生化学、組織学、臨床医学に至るまでほとんど全ての図説を描いている。まさに人生をかけた偉業である。が、そんな彼の描いた図は、間違っていたとしても正当化されてしまう。彼の人間的なパワーのせいで、彼の誤りを指摘する者は出て来れないのである。よって彼の描いたイラストの参考になった文献はラッキーにも後世に残る。たとえその文献の仮説が間違っていたとしても…。同様に整形外科の分野ではHoppen Fieldの神経学図譜が世界じゅうに出回っている。彼は椎間板ヘルニアと坐骨神経痛が起こる理由を図解したが、これがヘルニアが神経を圧迫して神経痛を起こすという誤解を広めている。そしていまだにこの誤解は解けておらず、世界中の整形外科医、脊椎外科医が間違った手術を行っている。彼の業績が偉大なだけに、間違った図解イラストが正当化を帯びてしまい世界中の坐骨神経痛患者が手術被害を被っている。

仮説の正当化に統計学の入る隙間がない

何度もいうが仮説はどこまで行っても仮説。それが真実かどうかは現時点では判断できない。そこで人々は仮説に信用性を持たせるためにあらゆる努力をする。その一つが統計学である。 だが、統計学を用いたとしても、ショッキングなダーウィンの進化論などは世間に広まりにくい。だから命を人生を賭けてガラパゴス諸島で研究し、正当性、信用性を持たせたのである。偉大な人間の仮説は正当性を帯びる。そこには統計学が入る余地はない。一度正当性を帯びたものは、何百年経ってもなかなか誤りが修正されない。もはやそれは統計学ではない。人間学である。

推測の科学

多くの科学者は統計学を用いて何かと何かが「関連がある」ことを証明し、そこから関連の理由を推測する。推測することをいけないと述べているわけではない。だが、推測が真実に近いかどうかは統計処理とは無関係である。推測が真実にどれだけ近いかを証明する物はこの世に存在しない。たとえば「誰もが絶対に正しいと信じている物理の法則」万有引力の法則でさえ、それを100%証明する証拠はない。天体の動きや質量のある物体同士の引力の実験から万有引力の法則が考えられているのであって、もしも宇宙空間に重力に反応しない物質が発見されればこの法則は崩れる。万有ではなくなるからだ。よって絶対に覆らないと思われていた物理学的な法則でさえ、新しい法則が発見されて事実が塗り替えられることはある。
へ理屈に聞こえるかもしれないが、法則の全ては推測の域を超えないない。推測が真実であるかどうかは、無限の歳月が流れてもなおその法則が崩れないときに100%に極めて近い真実となる。無限の歳月は現時点で証明できないわけであるから、科学の法則の全てが推測の域を超えない。

例外を無視する統計学

アドレナリンが分泌されると血圧が上昇する。この「アドレナリンの上昇」と「血圧の上昇」は統計学的には関連ありと出る。100人のボランティアを用いた実験を行っても、緊張→交感神経の興奮→アドレナリン分泌→血圧上昇は統計学的に100%に近い確率で関連性が証明されるだろう。しかしながら事実は違う。 100人では確かに関連が証明されるが、10000人の実験では例外がほぼ必ず出る。 実験は緊張を作り出すためにホラー映画の鑑賞を用いる。すると10000人中、2~3人は逆に血圧が下がってしまい気分が悪くなる者が現れるのである。「アドレナリン上昇」→「血圧低下」となる者が3人出現したとする。しかしながら統計学的には「アドレナリン上昇」と「血圧の上昇」は関連ありとなる。3人を無視視することでしか「アドレナリンが上昇すると血圧が上がる」という論文を発表できない。このように統計学を用いて正当性を述べている論文では少数派を無視するということがしばしば行われる。

真実に近い仮説を構築する方法

さて、統計学の話はここからが本題である。世界中で教授と呼ばれる者のほとんどが、実は統計学では言ってはならない仮説の正当性を統計学処理を用いてそれとなく述べている。だが、世界が統計学を用いて「そういった推測」を「言ってもよいこと」を暗黙の了解としているので私はそこに口をはさむことはしない。学術界の全てが、このような統計学の誤った理解を暗黙の了解にしているのなら私がそれを指摘したところで意味はない。意味があるとすれば、どうすれば真実に近い仮説を導き出すことができるようになるかである。ここではその具体的な方法を述べていく。

1、欲を捨て去ること

論文とは自論を認めてもらうための文章である。より大きな学会、より権威ある雑誌、より多くの学会員に誰よりも早く認めてもらい、そして出世したいという欲がある。こうした欲が強い者が真実にたどりつくことは難しい。常に、「欲は真実を歪める」からだ。特にマイナーな学会は自分たちの商売に都合のよいことを言う者たちが集って作られる。そこではオカルトが集団による確信を得て真実化してしまう。

2、たった一人の例外も、例外にしないこと

私は以前、「手を水にぬらすと小便がしたくなる」という患者と出会ったことがある。それがなぜなのかいまだにわからないし答えも導けない。だが、この患者を変わり者として例外扱いすると思考は止まる。真実は「必ず因果関係は存在する」のであって、この患者が例外なわけではない。私はその時点で理由を考え悩んだが、そのように悩んだことをバカバカしい時間の無駄と思ったことはない。そして5年の月日が経ち、他の病院にも同じ症状の患者がいることを発見した。やはり例外ではなく、何か共通した理由がある。その理由を今でも考え続けている。さらに最近では水の流れる音を聞くと尿意が起こるという人も出現した。これを心因性として思考を止めたりしない。そうやって、「今は理解できないことでも考え続ける」ことで真実は見えてくるものである。他の大勢の人には「そんな症状があり得ない」→無視、または「心因性」とすることはとても非科学的だと私は感じている。統計学の悪影響と感じる。

3、因果関係は完治させることで正当性を帯びる

例えばアトピー性皮膚炎の原因を探ろうと思っても、今の医学ではなかなかわからない。そして原因はおそらく一つではなく、免疫システム、食事、環境、遺伝子などいろんなものが複雑に絡んでいるだろう。だが、もしもこの患者が、引っ越ししたところではアトピーが完全に治ったとしたら、以前の家の環境に最大原因があったことは推測される。つまり、ある治療法で完治するのであれば、理由が明解になることはしばしばある。もちろんそれで因果関係がはっきりすることはないが、真実に近づく。
西洋医学は○○が悪ければ××が発症するというように、壊れることで学ぶ学問である。ところが治すことで理由を発見していけると考察の幅が増える。因果の推測も確実性が増す。現、内科学では症状を軽減させるために薬の処方をするが、患者を治しているわけではなく、薬をやめれば再発する。こういう診療しかしていない医師は考察力が著しく低くなる。本気で患者を治療するのであれば、患者の食事から生活まで徹底的に指導していかねばならない。そうやって患者を本当に治せた医師にのみ、真の考察力が生れ、仮説が真実に近づく。治せない医師に「医師の勘」は生まれない。

4、患者の話は全て聞き入れる

患者の妄想に確信が潜んでいる。患者は自分の今の病気と何か関係があると思い整形外科で血圧の話から脳梗塞の話まで怒涛のごとく喋りまくる。これらの多くは確かに被害妄想である。まともに聞いていたのでは診察時間を浪費されてイライラする。だが、そうした被害妄想と思われる話には世界の誰もが発見していない重大なキーワードが潜んでいる。「手をぬらすとトイレが近くなる」「肩に注射したら両足が象のようにむくんだ」「友達に手を握られた後から手が死ぬほど痛い」などなど医学的に整合性が合わないと思う患者の言動にこそ真実が潜んでいる。
こういった患者の話に耳を傾けていると、後々に特殊な症状を起こす患者たちに共通点があることを発見できるようになるのである。その共通点は、一つや二つの絡みではないため、なかなか発見できない。ところが何十年も考察することを続けていると、その複雑な絡みさえ見えてくる。絡みは、たとえばコレステロール値の上昇だったり、仙骨の角度だったりと多彩である。多彩すぎて論文化できないほどであるが、そこから導いた考察・仮説は真実味をおびる。

5、専門家になったら医師の勘は劣化する

どこの病院にも専門外来があり、マイナーな病気の専門家がいるものだ。だが、患者の病気は我々が決めた病気のカテゴリー分類をたやすく越える。例えば、私は脊椎を研究しているが、脊椎の疾患から、顔面神経麻痺、難聴、めまい、更年期症状、睡眠障害、高血圧、三叉神経痛、月経困難症、過活動性膀胱などをきたすことをおおよそ突き止めている。が、これらの疾患は整形外科の範疇を超えている。脊椎の専門家で腰痛や神経痛のみを診察している偉い先生には、上に挙げた疾患が脊椎が原因で起こっていることなど想像もできないし治療ももちろんできない。ましてや、患者がそういう症状を訴えれば、「脳外科に行きなさい」「婦人科に行きなさい」と他科を紹介するだろう。このように専門であればあるほど、全身疾患として患者の症状を診ることができなくなり、常に自分の得意とする分野だけを診ようとするため因果関係を追究する考察力が育まれない。専門家の立てる仮説は視野が狭く思慮が浅くなるのはそのためである。権威者ほど専門をやりたがるため、権威者の仮説ほど因果関係が単純になりがちである。

6、他のどの医者の文献も参考程度に

例えば私はXPを画像処理して角度や長さを計測し、毎日のように写真と格闘しているが、XPは所詮「影」である。そこから立体を推測する能力は、医師とは別の能力を要する。よって私は他の医師が計測したXPの計測値を一切信用していない。例えば臼蓋形成不全の指標となるCE角やSharp角でさえ、撮影角度で5°以上、即座に変化する。私は医学雑誌や医学書を読む時は、「この論文は思慮が浅い」と思うところに赤線を引くのであるが、ほとんどの書物は赤線だらけになる。大切なことは「自分の頭で考えること」である。他の医師の論文をあてになどしていては重大な情報をかえって見落とす。これは他の医師の論文を読むなという意味ではない。読んでもよいのだが常に疑ってかかれという意味である。権威者の論文を疑うということは反社会性とも受け取られるが、別にそうした意志を発表しなければよいだけのことである。

7、真実の仮説は全てがつながっていく

たとえば私は脊椎を特に研究しているが、脊髄・神経根にかかる張力が原因で多彩な全身症状が出ることをつきとめている。この脊髄・神経根の張力の問題は、生まれつきの背骨の形態に非常に影響し、不眠、自律神経失調、月経困難、更年期症状とも密接なつながりがある。こうした説は認められていないが、世間に認められる認められない以前に、すでに多くの不定愁訴患者を脊髄や神経根へのブロック注射で治癒させてきた。治癒させるたびに考察を続け、何が原因でどういう症状が出るかを、どうすれば症状を完治させられるかを考え続けていると、仮説の一つ一つがつながっていくことがわかった。真実に近い仮説は、必ず他の病気や症状ともつながる。つまり関連性が判明してくる。もちろん、中には消えていく仮説もある。それは他の疾患とつながらない仮説である。絶え間なく、例外を許さず、全ての患者の症状の理由を探ろうと努力していると、仮説はどんどんつながり、核心に迫る。そうして確信に近づいた仮説では、例外がほとんど出現しなくなる。
8、多くの情報を仕入れる 症状の原因は患者の日常生活に隠れている。たとえばダンス教室通っている。一人暮らしで店屋ものしか食べていない。娘に「歩きなさい」と命令され、辛くても歩いている。朝起きるときに痛い。横向きにしか寝られない。などなど…これらの情報を毎日のように仕入れ、多くの患者で現在の症状と参照していくと、時に関連性が見えたりする。その情報量はとにかく多い方がよい。多い情報量を聞き入れて、その情報を忘れないで頭に叩き込んでおけば規則性が見えてくるのである。
よく、臨床医でもない基礎医学者が「これを食べると体に悪い」などという書物を出しているが、患者と接触していない基礎医学者が、その少ない情報量で推測しても信用度の高いものは得られないと思う。臨床現場では基礎医学者が扱う情報量の何百倍もの情報(症状)が実際に飛び交う。井戸の中で研究している基礎医学者が確信に迫ることは難しいだろう。ここでは基礎医学者を批判しているのではない。臨床現場において患者から情報を得ようとしないで机の上で関連性を見つけても、その信憑性は高く成り得ないと述べている。

あなたの仮説は正しいですか?

整形外科医は腰髄のMRIを見ながら患者に「ここにヘルニアがあるから、これが神経を圧迫して神経痛が出るんですよ」と説明する。しかし、その説明は正しくない。前述したがヘルニアがある高齢者の多くは症状がない。ヘルニアがなくても神経痛の強い者がいる。ならば「ここにヘルニアがあるから神経痛が出るのですよ」と説明することは正しいようで正しくない。正しくないのに手術を受ければ患者は被害者になることがある。
原因と結果の仮説が正解か不正解かを見分ける手段は、いく通りか用意されている。しかしながら、用意されている診断テストを考案した者の論文が正しいとは限らない。それを示すように腰椎の手術は治療成績が悪く、そして再燃率も圧倒的に高い。当然ながら、医学書を真に受けることも避けなければならない。そして真実の仮説は、多くの患者から多くの情報を得て、例外を一人も許さず、他の医師が治せなかった症状をも治してきた実績などがそろってはじめて考え付くものであることも理解できるだろう。治せないなら机上の空論である。多くの情報から導き出す複雑な診断は、文書化することが不可能に近い。また、文書化したところで他の医師はそれを信じることはない。よって考察力の鋭い医師が仮説を論文化しても認められることはなく、くたびれもうけとなる。このくたびれもうけに飛び込んでゆける勇気ある医師だけが真実に近い仮説を考え付くことができるようになる。それはもう我欲を捨てた禅道のようである。

原因追究をどこまで考察するか

再度言う。統計学では因果関係を述べてはならない。「どんな理由でこの症状が出ているか?」ということは、医学書に掲載されているような単純な理由ではなく、何十種類の理由が複雑に絡み合っている。その何十種類の中にも原因なのか結果なのかの区別のつかないものあるし、症状に影響力が大きい原因、そして小さい原因まで多々存在する。その何十種類の原因をピックアップし、結果となっているものを除外し、影響力の大きさに順位をつける作業が「医師としての能力が試される」技である。そして影響力が1位の原因を最優先して治療することでその患者は完治に近づく。
この複雑かつ困難な作業に統計学は入り込めない。統計学では1位の原因にも2位の原因にも3位の原因にも症状と関連がありと出る。だから、どの原因が最も影響力の強い原因なのかが数字でははじき出せない。原因の順位づけには統計処理が不可能なほどに無数の条件を絞って検索処理していく能力が別途必要になるわけで、それをせず、過去の医師が編み出した診断方法に頼るようでは真実の原因にたどりつくことはない。医学とはそれほど奥が深く診断とはそれほど難しいものである。
例えば、整形外科ではSLR testというものがあり、腰椎椎間板ヘルニアと極めて関連性の強いテストだとされ、SLR testで陽性→ヘルニア→手術適応、陰性→ヘルニアが原因ではない→手術しても無意味、とし、まるでSLR test が絶対的な腰椎外科手術の適応診断ツールのように扱われていた。私は当時から、こうした徒手テストを絶対視する習慣を極めて嫌い反発していた。今でもSLR testを患者に行ったことがない。無意味と感じているからである。
例えば次のような症例を例に挙げる。 下の写真は腰椎のMRIである。左、Aは78歳男性、症状は両足底の軽いしびれ。痛みなし。右、Bは37歳女性、症状は両下肢の坐骨神経痛としびれ。10分間立位でいることが困難という状況が2年以上続いている。 TA01 AではL4/5の高さで非常に強烈な狭窄があり、馬尾神経が激しく圧迫を受けている。しかし目立った症状はない。一方Bでは目立ったヘルニアも圧迫所見もなく、ほぼ正常に見えるが2年間も続く坐骨神経痛に悩まされている。
さて、Aではこれほど神経が圧迫されているのに症状がほとんど出ない理由、Bでは圧迫がないのに痛みが出る理由を考察しなければならないのが医師の務めである。しかしながら世界トップの権威のある医者でさえ、その原因と結果について考えることができないのが現実である。こういうケースでは統計学が全く役に立たない。多くの医師は上のような症例に遭遇すると「例外として無視する」という方向に駒を進める傾向がある。Bの女性には「MRIでは異常ありませんねえ」とごまかし、それでも痛みが治まらないなら精神科に廻す。因果関係を考えるのは常に推測であり、その推測能力は医学書や統計学からでは養うことができないという例である。

患者は医師よりも真実をついていることがある

患者から次のようなことを言われたらあなたはどう思うだろう。「先生、私は先生に膝の注射をしてもらってから脳梗塞になりまして、2週間ほど入院していたんです。幸い、症状は軽かったんですけど、膝の注射が脳梗塞と何か関係がありますか?」これをほとんどの医師が「いいがかり」「被害妄想」ととるだろう。膝の注射と脳梗塞に因果関係があるわけないだろう!と言いたくなる。因果関係は、医学をこれほど学んでいる医師にでさえ推測することは難しいものなのに、医学の知識もろくにない患者が因果関係を推測したところで、それが真実である可能性は極めて低いだろう。
しかし、よくよく考えると、膝に注射した際にステロイドを少量使用していた。ステロイドは血中の糖の値やコレステロールの値を上昇させ、血液の粘度を高めて血栓を作りやすくさせる副作用がある。だからもしかすると、ステロイドがきっかけで脳梗塞が起こったかもしれないと因果関係を考えることではじめて医師の考察力が成長する。しかし、血栓が出来るのは長期・大量使用の場合がほとんどで、少量のステロイドを1回きりでは起こりにくいとも考える。いや、そこで思考を止めてはならない。血糖値が高めの人はどうなのか? コレステロールがもともと高い人はどうなのか? 少量のステロイドとはいうが、少量とはどの程度の量なのか? どのくらいの量なら安全が確保できるのか? ステロイドの副作用がでているかどうかを調べるためには何をどう検査すればよいのか? まで考察することではじめて因果関係のなぞがわずかに紐解ける。
だが、「言うは易し、やるは難き」少量のステロイド使用で副作用が出るのはどういうタイプの人なのか?を調べるには数多くの症例を経験し、いろんな条件わけを行って比較検討しなければならない。その因果関係を調べるだけでも、一人の医者が数年間研究をしてやっと答えが導き出される。少なくとも、これまで膝にステロイド注射をしてきた患者の中に、脳梗塞を注射直後に起こした人はいない。だから、ステロイドは原因ではなく、偶然であると結論付ければ、それ以上考える必要もない。統計学では「関連なし」と答えを出してくれるのだから。だが真実を見つけようと動き出した医師だけが真の因果関係にたどりつくチャンスがある。そう、統計学を無視した者だけが真の因果関係発見に近づける。皮肉なものである。
これと似たようなことはもっと身近にある。患者は「この薬をのんでからこうなりました」と医者が「そんなばかなことあるわけない」と即答する。だが、真実は患者の口走りの中にたいてい隠れている。なぜなら、患者は自分の体で起こっていることであるから、体内の統計学があらゆるパターンから出来上がっているからである。カイ2乗検定を行わなくとも、関連性のあるなしを直感で計算できるのである。妄想の場合もあるが、人間の直観における因果関係の有無検定は案外真実をついている。だから患者の妄想的口走りをすぐさま否定する医師は「因果関係を推測する能力が低い」と言ってもよい。

まとめ

統計学は因果関係の仮説に正当性をもたせる学問として世界でまかり通っている。だが本当は、因果関係の正当性については述べてはならないのが統計学の原則。その原則を破って多くの学者が自分の唱える仮説の正当性を統計学を用いて述べている。因果関係の仮説の正当性を100%証明できるものはこの世に存在しておらず、1万年後、百万年後の未来においても、その仮説が覆されないことによってのみ正当性が生まれる。それでさえ100%正しいとは限らない。
仮説は常に思考が単純化、極端化されているため、単純化のプロセス中に真実から離れるという宿命がある。メジャーでは正当性が成り立つが、まれなマイナー症例では仮説が成り立たない。我々医師はその事実を理解し、常に自分の頭で仮説を立て直し、正当性をいろんな条件を変えて調べていくという試行錯誤を怠ってはならない。理屈に合わない症状、誇張された症状などは自分の仮説を崩してしまう症例となるが、その時に患者を無視してはいけない。その誘惑を振り払い、はじめから仮説をたてなおし(自分の意見を自ら壊し)、研究しなおす強い精神が医師としての技量を上げてくれる。
統計学は「正当性の証明」を与えてくれるので誰もが欲しがる甘い蜜である。その甘い蜜に手を出してしまえば、そこで医師の思考は止まる。統計学はあくまで因果関係の推測の参考にしかならない。真の因果関係はあなたが考えているよりももっと複雑であることを真摯に受け入れると医学は前進する。医学書、医学雑誌、学会発表など他人の業績に頼ることなく、自分の頭で考えて診察していく姿勢がなければ医学は発展しない。

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