炎症と痛み
痛みを感じるには電気信号が生成される必要がある。電気信号を継続的に生成させるにはスイッチと発電機とスイッチが切れないようにする装置が必要となる。これらの装置が働くことで「痛みが長く継続する」状態が確保される。神経に針を刺しても、皮膚や筋肉に針を刺しても、痛みは一瞬しか持続しない。ところが、人間にとって組織が切れたままで動くとさらに組織が壊れて致命傷となる。したがって脳に対し「切れた部分を動かさなくする信号」を切れた組織が送ろうとする。それが痛みの持続信号である。痛みの信号は持続しなければ意味がない。一瞬の痛みだけなら人間は再び損傷部位を動かしてしまう。脳は全ての組織を動かす司令塔の役割をしているが、体中の組織もまた痛み信号を利用して脳を奴隷にしている。つまり痛みのないような行動をとらせるために、脳にとって耐えがたい電気信号を送って操っている。それが痛みの本質であり真実である。
切れた(壊れた)組織にとって重要なことは、修復が終わるまで人間の脳に痛み信号をずっと送り続けることであり、そのために炎症というやっかいごとを発生させる。切れた部分が脹れて炎症を起こすのは、痛み信号を長期間持続させるための唯一無二の方法である。そして脹れた部分から出血が起こらないようにするための防御策として脹れるとも言える。
組織が脹れると血行不良をおこし、修復の速度が落ちるが、それでも組織は究極の選択をする。血行を犠牲にしてでも痛み信号を脳に送り続けて「切れた部分を動かせない」方を選択する。痛みのスイッチとなる化学物質は数々見つかっているが、なぜそれほどたくさんの種類があるのか?の理由はわかっていない。ただただ、痛みの電気信号を脳に送り続けるために炎症物質は活躍し、脹れのおかげで炎症物質は洗い流されずにその場にとどまり、脳に対して「動かすな!」の信号を送り続ける。
電気信号を作り続けるには燃料が必要だが、燃料は血液の中に豊富にある。しかも燃料の供給は損傷した部分ではなく、後根神経節と呼ばれる部分から補給される。神経内で補給物資が輸送されるため損傷部位で血行不良が起こっても燃料は供給され続ける。だから痛みは止まらない。近年私は後根神経節だけでなく、脊髄にも痛みを持続的に作り出すシステムがあることを確信しているがここでは述べない。
また、痛みのスイッチは過敏でなければ意味がない。少々の動きではスイッチが作動しないなんてことが起こると、脳は「痛くない範囲で動かす」という戦略をとってしまう。そうさせないためにスイッチはわずかな振動、温度変化、湿度変化、感情の変化ででも作動するようになっている。おそらくそういった過敏性を作り出すために、炎症性化学物質が何種類も存在している。
雨が降ると痛い、気分が沈むと痛いなどが起こるのはそういった過敏性のせいである。この過敏性を作り出すのは交感神経との連係プレーである。交感神経とは文字通り感情と交わる神経。つまり感情の起伏で痛みが強弱される。気温や湿度でもだ。損傷した組織はそこまで徹底して脳に「動かすな!」という痛み信号を必死に送っている。
動かさないことが組織修復に必須
なぜこうまでして損傷した組織が脳に「激しく持続する、感情や気候とも連動する、痛み信号」を脳に送り続ける必要があるのか? それを考えることは難しくない。「損傷部位は動かさない方が修復される」以外に理由はない。もう一度言う。- 「動かさない方が修復される」
昨今、運動しながら治療する方法が大流行しているが、それはある程度組織の修復が済んでいる状態でのみ有効であり、損傷の程度が大きい時に運動療法をするのは愚かとしかいいようがない。ここまで組織が必死になって痛み信号を作り出し、脳に「動くな」と命令しているのに、その命令を無視して動かせば、組織はさらなるペナルティを脳に送るしか仕方がなくなる。慢性の痛みとは組織が作り出す脳への消えないペナルティのことを意味する。
全く動かさない状態を推奨しているわけではない。動かない=重力が1箇所に集中=損傷、となるので、重力を分散させる程度に動かす必要がある。また、動かすこと=血行促進=組織修復、であることは間違いないが、動かして損傷>血行促進の組織修復 の時は動かさない方を選ばなければならない。重症度が強い時は動かした方が損傷する。その重症度の境界がどこにあるかを知らないのなら動かさないことを選ぶべきである。
痛みの信号を消し去るという暴挙
患者は理由も知らずにただただ痛みを取り除いてほしいと医者に命ずる。最近は患者は病院をコンビニエンスストアだと思い、医者に対して「お金を払ってるんだから、言われた通りに痛みを取り除きなさいよ」という態度で臨む。いや、病院はコンビニではない。現にお金は患者からもらっているのではなく、大部分は公的機関が支払ってくれる。だから医療は患者のいいなりにならずに済み、そのおかげで平等で公正な医療を施すことができる。痛みを取り除けば、何も考えずに平気で「動かして仕事に出かけてしまう患者」に対しては「痛み信号をわざと取り除かない」という選択肢がある。そういう意味で医療はサービス業ではない。どちらかというと患者を教育する教育機関的かもしれない。だから医師は先生と呼ばれている(少なくとも私はそう信じている)。
我々医者は薬や注射で安易に痛みを取り除き過ぎている。これは損傷した組織にとっては迷惑な話である。迷惑どころではない。損傷しているのが神経や脊髄であったなら、患者から痛みを取り除くことで致命傷となる。安静にすることは人間にとってあらゆる治療に勝る最高の治療である。このことに異論を唱える医学者がいるとしたらそれは人間の傲慢であろう。
痛みを軽くさせても自分で行動を制限できる賢い患者なら痛みを取り除いてあげても差し支えないだろう。しかし、痛みを取り除けば仕事に出かけ、どんどん組織を損傷させて取り返しがつかなくなるような愚かな患者の場合、医の倫理にかけてその患者から痛みを取り除いてはいけない。痛みを取り除かないでいると患者から怒鳴られ診察室で口論となる。しかし患者と喧嘩をしてでも痛みを取り除かないという勇気ある選択肢を選ぶことが必要な時があるのが医道でもある。ここが医者がサービス業ではないとされるところであろう。
痛みを取り除かないという選択肢
我々医者はできる限り、日常生活を普通にしながらでも痛みを取り除いてあげるということをして差し上げるべきだ。ただし、それは動いていても治っていくという前提がある場合に限られる。動かないこと、安静にすることは人間にとって最大の苦痛であり、安静を命ずるのは最後の最後の手段でなければならない。つまり、ありとあらゆる世界中に存在する痛みを取り除く方法で加療し、しかしそれでもどうしても悪化の道をたどってしまう場合にのみ安静を命令する。よってありとあらゆる除痛の治療を尽くさない医者が患者に安静を命令してはいけない。誓って言うが、一般に医療をしている医者の大部分は痛みに対して八方手を尽くさない。よってほとんどの医者には患者に安静を命ずる資格がない。
痛み治療に全力を尽くせない医者が安静を患者に命令することは癇癪(かんしゃく)でしかないと心得るべきだ。どうせ患者にも理解されない。さて、ありとあらゆる治療、投薬量の増量、難易度の高いブロック注射、短い間隔での治療などなどやりつくしてもダメな場合に安静を指示する。しかし、それでも安静を守らない患者が存在する。こうなると外来をストップしてでもその患者に説教タイムとなる。私は患者に嫌われることを全く気にしない。口論になっても全く動じない。その患者が怒って私にクレームをつけようと構わない。安静が治療の上でどうしても必要な場合にのみ徹底的に患者を説教する。
その結果私を毛嫌いし、私の元を去っていくなら…それでもいいのだ。どうせ、周りの病院にかかったところで、私以上に痛みを取り除ける医者は存在しない。つまり、私を去れば今よりも痛みをひきずることを意味する。これで患者は痛みの奴隷となり、安静せざるをえなくなるわけだ。
私の場合、痛みを取り除かないという選択肢はこのようにして患者自身を追いこんで選ばせる。頭でわからないなら体でわかってもらうまでのこと。酷いことを言うように聞こえるかもしれないが、私が安静の指示を出す患者は年間に1人もいない。安静は最終兵器であり、最終兵器はほとんど使うことはない。
脊椎の病気は特に安静が重要
動けば悪化し、安静しか治療法がないという病気は脊椎疾患以外にほとんどない。脊椎は運動の根幹部であるから、ここが損傷すれば過激な痛み信号が脳に送られ続ける。神経ブロックなどなかった時代は、脊椎系の病気の治療は全て安静以外に方法がなかった。脊椎は基本的に動かしながら治す場所ではない。神経は運動を伝えるパイプラインであり、神経が損傷しているのに動いて治すというのは常識外れだ。しかし、これを知らないのは一般人だけでなく医者の多くもこの常識を知らない。神経が炎症を起こして痛みが来ていると言うのに「痛いのは歩いて治しなさい」「腰痛は腹筋を鍛えなさい」と指示する医者が多すぎることに真剣に困っている。
はっきり言うが多くの患者も医者も腰の痛みと仙骨部の痛みを区別できない。つまり純粋な腰痛と仙骨部に響く神経痛の区別ができない。最近では純粋に腰痛と思われていた症状の中にも神経根由来のものがあるとも言われているが、頭の古い整形外科医はいまだに仙骨部の痛みを腰痛の関連痛だと思っている。だから歩いて治せという意見になるのだろう。だが、実際は仙骨部の痛みのほとんどは坐骨神経痛の一部である。神経痛だから歩いてもらっては困るのだ。
脊椎の病気で化膿性脊椎(椎間板)炎というものがあるが、この病気は安静にしている以外に治療法がないことで有名である。抗生剤が椎間板まで届きにくいからだ。それよりも何よりも動くことは炎症を広げることであるという認識を、この病気では医者ならば誰もが普通に知っている。これが意味することは「医療の小細工が届かない場所の炎症は安静しか治療法がない」ということである。化膿性脊椎(椎間板)炎では、腰痛を歩いて治すことを推進する医者でさえ、絶対安静派に回るのである。
神経根の炎症では、軽度なら経口薬は通用するが、慢性化したものや激しい痛みを生じるものには全く通用しない。つまり医療の小細工が通用しない。このような場所の炎症を治療するには「歩いて治す」「仕事しながら治す」というふざけたことを言っている場合ではない。蛇足ではあるが、腰椎圧迫骨折も安静で治すものである。歩きながら治すなんて治療はない!
安静を指示する鬼になる
患者に安静を指示するのは治療のうちの最後の手段である。なぜなら、患者は注射より手術よりなによりも安静を嫌がるからだ。手術のストレスよりも安静のストレスの方が大きい。神経痛の患者に安静を指示しても、守る患者はほとんどいない。命令しても必ず無視する。それほそど人間は安静にしていることができない生き物のようである。私は、ブロック注射を週に2回行い、それを数カ月連続で行っても症状が軽快しない神経痛の患者にのみ安静を命じている。もちろん、神経痛を治したいと本気で思っている患者にのみ安静を命じる。治すことに真剣でない患者には安静を守る強い意志などあるはずもない。安静にするには人としての強い精神力が必要であり、並みの人にはできるわけがないことを最初から知っておく。だから安静は最終兵器であるべきなのだ。
だが、安静を命じて、それを守った患者はことごとく症状が改善する。そのデータは別に示す。安静の威力は想像以上に大きいということを付け加えておく。手術しなければ治らないとされる激しい神経痛の患者も、安静を守らせればほとんど軽快する。特に腰椎圧迫骨折の患者は医者と口論をし劣悪な関係になることを知っておこう。動けば痛いの典型だからだ。そして痛みに対しての治療法なしの典型だからだ。
骨折は、骨折部を動かさなければ痛みがない。動かせば痛い。安静しか治療法がない。だのに患者はトイレに食事に着替えに風呂に起きて動こうとする。そのたびに痛みという激しい罰が下される。そして動いた方が治りも遅く、脊椎の変形(後遺症)がひどくなる。安静は医者が下さなくとも体から発せられる絶対命令であり、従うしかない。にもかかわらず「動いても痛くないようにしろ」と医者にあり得ない魔法を要求する。
つまり医者と患者の信頼関係は腰椎圧迫骨折をした時点で悪化することが必至なのである。「安静しかない」といっても患者は怒り、「安静していれば1カ月半で必ず治る」と言っても信じないし、「安静とはトイレにも行かずおむつにおしっこすることですよ」と言っても守る患者はいないし、入院させてくれる病院も少ないから紹介もできない。
このように患者はどうあがいても安静という拷問から逃れることはできない。そして「拷問を受けるしかないんだ」と真実を言う医者は患者にたいそう嫌われて信頼関係が崩れさる。しかしそれを恐れるな! 医者は美容師ではないのだから、嫌われることを避けるな!といいたい。安静を指示する場合、医者は鬼にならなければならない。ただし、私の場合、最近では痛みを取り除く技術がさらに進化してきたため、週に2回もブロックをしなくとも痛みを取り除けるようになってきた。だから安静を指示する患者はほとんど存在しなくなった。
1週間安静臥床で廃用性症候群?
- 安静は最強の治療武器であるが、副作用ももちろん大きい。全身の筋肉が衰える。
廃用性症候群はあったとしても一時的なものであり、痛みが完治すればほぼ必ず回復する。だから廃用性症候群をきちっと調査するには1年後・2年後・10年後の比較が必要であり、それが寿命にどう影響するかをはじめとするきちんとしたデータでなければ臨床的に意味がない。だから現在、廃用性症候群の心配をする外科医たちの論文は意味がなく、自分たちに都合がいいとしか言えない。
教科書的には安静臥床の限界は多くて1週間といわれるが…私は最初からそれらを「外科医の手前味噌」と思い、信用していない。信用しない結果、多くの重症患者を救えた。「トイレにも行くな!おむつでせよ!」を指示し、それを守った患者は驚くほど見違える改善を示した。他のどんな治療でも治らない患者がである。そしてそう指示した患者がその後、1名たりとも廃用性症候群になっていない。彼らは痛みがとれて動けるようになるから以前よりも筋力が増すという逆の結果である。
廃用性症候群にさせるのは痛みであり、それを取り除けば逆に廃用性症候群は軽快する。痛みを取り除くために1カ月の安静を指示することは医の倫理に反しない。ただし安静指示は、教科書とは真逆の考え方の治療なので患者に指示するのはたいへん勇気がいる。そして安静で完治させた実績も積んでいなければならない。そうでなければ、万一安静を指示し、その後に患者が寝たきりになったら、それが安静のせいではなかったとしても患者の家族に訴えられてしまう。だから安静の指示は簡単ではない。医師にとっても命がけである。
肺炎で1カ月入院し、退院時は車イス
整形外来に車イスで訪れる患者が時々いる。医者は車イスの患者には治療意欲を沸かせないことを知っている。なぜなら車イス=何をやっても無駄、であるからだ。だから、車イス患者に「どうして車イスになったのですか?」と質問する医師は皆無に等しい。私は車イスになった患者でもある程度治せるという特殊技術を持っているので患者に質問する。すると「肺炎で1カ月入院したら足腰が立たなくなった」と言う話である。さて、さらっとそうは言っても、これが若い人に同じことが起こったら訴訟問題であり大問題である。入院中、肺炎の治療に医師たちは気をとられ、患者の脊椎に異変が起こっていたことを見事に無視していたからだ。脊椎に高度な変形を持つ高齢者は、病院の固いベッドの上に長期間臥床にさせられていると、馬尾神経は損傷し、退院時は寝たきりになってしまうことがしばしばある。おそらく寝たきりになる理由は馬尾に限らず、脊髄全体の障害である可能性がある。内科に入院後、寝たきりになることがしばしばあるがそれは医療過誤としては認識されず、長期臥床で体力が低下して寝たきりというような医師に都合のよい解釈で無視されてしまう。
だが、寝たきりになってしまった本人と、患者を一生介護する家族にとって、寝たきりにされた事実はあまりにも重い。こういう寝たきり例は体力低下が原因ではなく、脊椎の無理な体勢を長期間してきたせいだという因果関係があるが、医療側はそれを絶対に認めることはなく、今後も同様な患者は増え続ける運命にある。これを防ぐには、入院中、患者の「腰が重い」という訴えを無視せず、入院中に定期的に硬膜外ブロックなどをする必要がある。寝具を変えるという意見もあるが、寝具の医療知識はエビデンスがなく、まだまだ研究されていない(私が今後研究する)。
私がこの患者の病院に勤務していれば彼女の寝たきりは防いだ。高齢者の寝たきりに関する知識は、医師もまだまだ知らない。悲惨である。さて、ここでもう一つ付け加えておくことは、安静とはいうものの、その体勢が悪ければ逆に悪化するというもの。これをみそも糞も混同して、寝ていると寝たきりになるという因果関係のはっきりしないことを一般人が騒ぎ立てる原因となっている。姿勢よく安静にすることが大切なのに、話が違う方向に行く。
安静の定義は非常に難しいと心得る
「あなたは動き過ぎているので痛みが治らないんです」と患者に言うとほぼ必ずムッとされる。「私はほとんど動いていません」と怒った口調になって帰ってくる。違うのだ。「動き過ぎているか?いないのか?」のジャッジは患者の脳がしているから間違う。体の中で動き過ぎかそうでないかのジャッジは神経が行っているのである。脳のジャッジが間違っているから神経が痛み信号というペナルティを与えている。つまり痛みがあるという時点で患者がどう生活をしていようとも「その動きは体を悪化させる」というジャッジが下されているのである。よって患者が「痛み」を訴える時点で「私はほとんど動いていません」という言い訳は全く通用しない。さて、その真実を患者に伝えると…もちろん口論になり外来で言い争いが始まる。医者は患者に「私をばかにしないで!」という顔をされる。顔だけならよいが「口のきき方ってものがあるでしょう!怒鳴らないでください!あなたは人間失格です!」とまで私に言ってくる患者もいる。真実は相手の心をえぐる。だから本当に相手のことを考えるなら口論は避けられない場合もあることを医者は肝に銘じておき覚悟しておく。これを覚悟しないと安静という治療は前に進まない。嫌われることは医者の勲章と考える。
さて以下に実話を紹介する
- 「先生、この前とその前と2回注射してもらったんですが、効かないんです。それどころか注射したところが痛くなりました」
- 「効かないって?注射当日も効きませんでした?」
- 「いや、当日と次の日は効いてましたが、それ以降ダメです」
- 「注射が効かないのは安静をしていないからだと思いますよ」
- 「そんなことはありません。私はこの2週間、今までの人生にないくらいに安静にしていました。誓って本当に何もしていないんです。でも痛みが全然よくならないんですよ」
- 「そうですか…これだけブロック注射をしてさらに安静をしてもよくならないんですか…なぜでしょう?本当に私にもわかりません。安静をしていて治らないということは基本的にはあり得ないんですが…ただ、私はあなたを一日中監視しているわけにはいかないのであなたのおっしゃる安静ってものが、本当の安静ではないってことも考えられますけど…」
- 「いいえ、本当にこれまでにない安静をしていました。フィットネスもやめましたし、家には直行で帰るようにしました。」
- 「えっ?直行で帰るって…まさかどこかにでかけているんですか?」
- 「はい、仕事に行ってます。立ち仕事ですけど。それでもできるだけ腰を曲げないようには心がけました。何せ曲げるたびにお尻が突っ張るんです。」
- 「あのう…まさかあなたが言う安静って毎日仕事にでかけることなんですか?」
- 「はい、仕事に出かけますが寄り道はしていません」
- 「よりみちをしないことを安静だと考えているんですか?」
- 「この2週間はきっちり安静に…」
- 「すいません、安静という文字を辞書で調べてきてください。申し訳ありませんが、もしもこの状況を改善したいのなら、私の言うことも少しは聞いてください。今後は週に2回来院し、状況を報告していただけますか? 私は何も安静にしていなければ治療をしないと言っているわけではありません。働いてらっしゃるなら働いていると、つまり安静を守っていないと本当のことを言っていただかないと治療にならないんです。これまでの人生にないくらい安静にしているとあなたがおっしゃるから、私は自分の治療法が間違っていたのでは?と真剣に悩んでいたんです。安静にできないならできないで、それを考えた強い治療をしなければならないでしょう?」
安静の定義は個人の常識の中にある。高齢者が毎日通勤し仕事をフルタイムでこなすことを安静だと考えているような常識外れな患者はほとんど人格障害もともなっている。人格が言葉の意味を強く歪めて着想させてしまうからだ。ただ、覚えておかなければならないことは、安静にしているかしていないか?のジャッジは常識が決めるのではなく、その患者の神経がジャッジをしているということ。つまり安静の定義は絶対的な尺度がなく、人それぞれである。この真実を医者がしっかりと考え、個々の患者に応じた安静度の設定をすることが望ましい。
ありがとうございます。
家族にも先生のご返事を見せます。
相談しまして、ご連絡差し上げます。
もし、先生の診察を受けることになりましたら、
ご住所等お知らせください。
やっと、わかりました、お忙しいところ、お手を煩わせまして、
本当に、ありがとうございました。
腰椎手術を3回しています。10年間です、1回目は整形外科で2.3番ヘルニア2回目は脳外科で3,4番狭窄症でした。3回目は2年前4、5、とs1の狭窄症側彎症すべり症の合併症です。固定を前提に手術を受けましたが途中でナビシステムが故障との事で除圧術のみで終りました。今回手術した3人目の医師も脳外科医です。
術後医師は今回はナビの故障で固定ができなったが様子を見ましょうとのことでした。退院後3-6間隔で検診安定していました。 そして今年
3月術後18か月検診の際痛みの出てきたことを訴えるとMRIの様子も変わっていないから様子見ましょうとなり現在に至りました。21ヶ月を過ぎた最近痛みがドンドン増してきました。腰と両膝下肢が痺れと痛みで両手杖でないと歩けません。2年目検診を前に診察を予約しました。最近このサイトに巡り合い相談いたします75歳長野県在住です。MRIは3月のものがあります。
先生の病院は混んでおられ診察前に詳細を送った方が良いと思いますのでどうすればいいですか。是非とも診察お願い致します。 匿名希望です。
除圧の手術を受ければ受けるほど脊椎は不安定性を増し、椎間孔狭窄が起こります。MRIで変わりないという理由はたいてい「椎間孔までしっかり見ていない、見ようとしていない」です。まあ、医師をこけにするつもりではありませんが、外科医たちは自分たちが手に負えない部分をしっかり見ようとしない傾向があります。
椎間孔狭窄で痛みが出ている場合、神経根ブロックを行うことをお勧めします。神経根ブロックは近くのペインクリニックでも受けられると思います。あなたのようにリスクが高い場合は実行していただけない場合が多々あります。長野県から来院される方は数名おられますが、75歳という年齢では若干、交通手段がからだのご負担にならないかと心配です。よって、近くのペインクリニックを探すという方法もあることを頭に入れておいてください。とりあえずご連絡差し上げます。