はじめに
医療はサービス業の一つであり、当然ながら患者の希望に沿う形で治療方針が決められていくべきですが、日本の医療は事実上「患者の希望で治療を行うことを禁止する」という方針で保険医療が進められています。ご存知でしたか?
私は開業して初めて知りました。それまで普通に勤務医をしていましたが、まさか「患者の希望は禁止」が保険医療の大原則であるなんて教えられずに20年以上医師を行っていたわけです。
この原則のおかげで余計な検査や頻回の治療など「お金のかかる治療」を制止することができるので「医療費がかなり削減できる」という国にとっては最高のメリットがあります。しかし、一方で医療が「患者本位」とならないために、検査を拒否することで病気を見逃し、治る可能性のある治療を途中でやめ、重大な医療事故を招くという弊害が起こっています。ここでは「患者の希望で診療を進めることを禁じている日本の医療行政」の実態を学び、その是非について考えます。
「治療に患者の希望はNG」に驚くばかり
私は難治性疾患を専門に治療を行い、数々の「治らない症状」を治してきましたが、それは私が望んでそういう医師になったのではなく、患者の希望をかなえようと必死に最善を尽くして医業に励んだ結果、他の医師が治せない症状を治せるようになりました。つまり日本の医療行政に逆行し「患者の希望中心」で診療を進めたおかげで「他の医師が治せない症状」を治せるようになりました。皮肉にも、医療行政に逆らって診療をしてきたおかげで医師として卓越した技術を身につけることができたわけです。
その私にとって「治療に患者の希望はNG」であるという保険医療の大原則を聞いた時は正直言って動揺しました。というより、他の保険医たちがこの大原則に違和感を持たずに診療を普通に行っている姿に危機感を覚えました。これは普通じゃない…
具体例を挙げます。治療を行う際、検査を行う際、その理由をカルテに記載しますが、それが「患者の希望」で行われることが許されていないのです。例えば、カルテに「先週のブロック注射が非常に効果的で、痛みが平均して半分以下になった。患者は継続して治療を希望。引き続きブロックを行う。」と書くとダメなのです。患者の希望で治療を行った旨をカルテや症状詳記に記載すると、その診療費を保険側が支払い拒否することがあります。また、個別指導を受ける場合があります。あくまで「患者の主観ではなく、医師から見た客観的な理由を記載した上で検査や治療を行いなさい」ということです。
一見もっとものように聞こえますがそうではありません。客観的=ガイドラインに示されている通りの方針、を意味しますから、例えば、患者の症状が診断基準を満たさない場合、非典型的で二つの病気が重なった症状などでは十分な検査や治療を開始することができなくなります。つまり、主観的には重い症状であったとしても、客観的な目に見える症状があまりないようでは治療や検査を受けられません。
また、治療間隔(治療頻度)を決める上で「患者の希望を無視する」ことは治療成績や医の倫理に大きなダメージを与えます。
患者は自分の主観で「治療をどのくらいの頻度で行えば適切であるか?」を考えます。そこには社会が介在し、会社を休める日数、注射がどのくらい効いているか? 手技が痛いのでやりたくない、危ない目に遭ったから可能な限り受けたくない、しかし本当に治るなら回数を増やしたい…などの思惑があります。これらの主観は医学的ではなく、客観的でもなく、厚生労働省は「無視しなさい」と医師に指導しているものです。しかし、実際は治療回数に患者の希望を取り入れることは「生活レベルを向上させるため」にもっとも重要で、治療成績に最も関わり、さらにリスク回避にも関わります。よって患者の希望主体にしてはいけないとしてしまうと、治療成績が大きく低下します。そして私は「患者の希望を主体として治療方針を決めているからこそ治療成績が極めて高い」ということを常に実証してきました。
患者の主体で医療を進めると、腕のいい医師では患者が多くの治療回数を希望し、ミスが多く痛い治療しかできない医師では患者の来院回数が減ります。よって腕のいい医師ほど厚生労働省のガイドラインに逆らわなければならない状況になり、腕の悪い医師はガイドラインに忠実に従い、医師の裁量で「毎週×5回連続治療を続けなければなりません」と患者に強制的に来院させようとするでしょう。基本的に治療回数は医師が決めるものというのが厚生労働省のガイドラインですから。よって、腕の悪い医師は「この治療があまり効果がない」ことをうすうす感じていたとしても、「5回連続治療に来なさい」と患者に命令し、お金儲けをするという医の倫理に反したことを平然と行います。つまり、腕の悪い医師にとっては「患者の希望禁止」は有利に働きます。厚生労働省のガイドラインが多くの医師に支持されていて、これに反感を持つ医師が少ないということはすなわち、腕の悪い医師が多いということに直結します。
私はこうした「患者の希望を禁じた日本の医療」に激しい違和感を覚えました。自分が「腕のいい医師」だからです(自画自賛で恐縮です)。多分、腕の悪い医師は違和感を覚えないと思います。
サービス業でありながら患者の希望を通すことがNGというあからさまな医療緊縮行政を推進するというなら「そうした指導を行っていること」を国は国民に伝える義務があるのではないでしょうか。
もちろん、なぜ患者の希望を通してはいけないか?の理由はわかります。患者の希望を通すと国の総医療費が膨らむからです。
患者の希望をNGにすると医療費の支出を抑えられる
痛みが強い患者は「できるだけ多く通院して多くの治療」を希望します。しかし、その希望をかなえるためには「患者が希望するから!」という理由をカルテに書くことはできません。例えば、毎週のブロック注射を行って患者を救うためには、カルテに「なぜ毎週連続で治療することを計画したのか?」について理論整然と記載しなければならないのです。真の理由は「患者が痛み・苦しみ・治療間隔を開けると苦痛で生活できないから」なのですが、「だから患者の希望を通し、毎週治療した」というのであれば、保険側がその治療費の支払いを拒否してよいことになっているわけです。
支払い拒否を免れるためには、まず治療計画を立て、痛みという患者の主観ではなく、生活水準の点数化などを行い、重症度を診断し、その診断から導いた治療回数を設定し、その予定通りに治療を行いなさいということになります。とても面倒、かつ融通の利かない、かつ患者の感情を無視した治療計画が正当とされています。
開業医としては、面倒な治療計画を立てるよりも「治療を減らして支払い拒否を免れる」方向に進めるものです。よって厚生労働省側は出費を抑えることができます。開業医に精神的なストレスをかけることで患者に濃厚治療をさせないことが可能です。腕の悪い医師であればこのような苦労は無用です。患者が来院したがらないのですから、最小限の治療で済み、保険の審査から目をつけられることがないからです。
病名がつかない症状は治療も検査も禁止
現代には病名をつけることができない症状が無数にあることは私が何度も述べてきたことです。その理由は「複数の病気が重なる」ためです。医学書に記載されている症状は、ほとんど全てが単一の病気の症状や診断基準であり、二つの病気が重なれば、診断基準をみたさなくなるというからくりがあります。つまり、複数の病気が重なると病名がつかなくなることが日常茶飯事にあります。
しかし、「病名がつかないものに検査も治療もしてはいけない」のが日本の医療の規律です。患者が検査を希望しても「患者の希望で検査を行うことはNG」としているため十分な検査や治療をしてもらえないことがあります。よって私のところへ来院するALS予備群の患者たちは病名もつけてもらえず、検査も門前払いされています。まさに医療費が削減できているわけです。
国側はあいまいな病名のままたくさんの検査をすることは、最も医療費を消費するので嫌っており、そうした国の方針に逆らう医師はいません。あいまいな病気ほど多くの検査を必要とし、それでも結果が出ないこともしばしばあるからです。日本の医師は極めてお上に従順です。この従順さは諸外国から見ると異常です。
さらに、あいまいな病気を一まとめにしてしまうのが精神科です。診断が付けられない不思議な症状を訴える患者は「精神がおかしい」としてうつ病、ヒステリーなどの精神病名をつけることが通例です。この通例により医療費の支出がどれほど抑えられていることでしょう。精神病がつけば検査や治療に大金をかけずに済みます。よって、先ほど述べたように、複数の病気が重なる場合は、精神病名がつけられ、検査や治療を医師側が打ち切ることができます。
厚生労働省のすばらしき業績
日本は世界一の長寿国であることは既知ですが、医療の業績を「平均余命」とするならば、日本は世界一の医療水準を誇っていることになります。ところが医療費の対GDP比は2014年に世界23位(グローバルノートによる)であり、少ないお金で世界一の医療水準を生み出していると言えます。つまり、医療経済効率が極めて高いと言えます。
この現象を医者側から見ると、日本の医師は他の諸外国の医師よりも処遇が悪く、少ない賃金で最大の仕事をする、つまり、お金にならない仕事でも引き受けることを意味しています。
そして学会・大学教授を筆頭とする超封建制度があり、日本の医師は上司に対して奴隷のように従順です。したがって厚生労働省の理不尽極まりない命令にも従い、反抗しません。まるで軍隊です。この体制こそが「日本の医師が少ない賃金で精一杯働く」理由となっています。
軍隊の筆頭が厚生労働省であり、以下に大学教授・・・となりますから、日本の医師は言わば「官僚の犬」です。よって「患者の希望はNG」「厚生労働省のガイドラインに忠実」となるのは当然のことといえます。
目の前に大企業の社長や会長、有名人がいたとしても、その患者の希望は通さず、厚生労働省の言うがままに動くあたりは、まさに忠義の犬です。凛々しくもあります。
患者が地位の高い人でも、大金持ちでも、総理大臣でも、その意見や希望は断固通さないというあたりは見事な共産主義であり美学です。そのおかげで日本の医療費はこれほど低コストに抑えられています。患者の希望で「この検査を入れてほしい、○○を診てほしい」などの要望は無視し、医師が必要と認めた教科書どおりの診療しかしてはいけません。医師が必要と認めた検査、つまり国が教授が学会が必要と認めた検査のみ行ってよいことになっています。医療費の削減は世界一といってよいほどわが国の低コスト医療は見事なものです。それは厚生労働省の業績と言ってもよいでしょう。
高齢化から見た日本の医療費
2015年の日本の高齢(65歳以上)人口は26.4%と世界一であり、しかも2位のイタリアを大きく(4%)引き離しての独走1位です。高齢者ほど医療費がかかるのは世界共通ですから、本来、普通に医療費をかければ、日本の医療費の対GDP比は「単独1位」で当たり前のはずですが、実際は世界23位です。これが意味するものは、日本の医療費のかけ方は世界有数の医療費削減国家であることがわかります。
どこでどのように削減しているのか?はいろんな要因があり、一概に言及することはできませんが、やはり、大衆が罹患する病気の保険点数の設定を低くし、大衆病こそ患者の希望通りに治療を受けさせない、という国の姿勢が大きな要因になっていると思います。しかし、それでも医療水準が高いのは、癌治療や心臓病治療などの分野で医師たちががんばっているためであり、結局、一定の賃金で一定以上の働きをしている医師たちが「泥をかぶっている」と思います。
さて、そうしたかわいそうな日本の医師たちにエールを送りたい気持ちはあるのですが、今後100年間は医療費の増大を防ぐことは不可能です。それは高齢者の人口が増え続けることがわかっているからです。
以下に日本の未来における人口ピラミッド予想図をあげます。
人口問題研究所の予想図によると、2060年には65歳以上の高齢者の人口が現在の25%が40%にまで増えます。一方、生産年齢の人口は現在の57%から47%にまで減ってしまいます。これが意味することは、医療費を消費する人口が大幅に増え、税金を納める側の人口が大幅に減ることです。つまり、医療財政が崩壊する可能性が高いと言えます。
この現実をつきつけられると、「患者の希望をかなえる医療を推進しろ!」とはとても言えません。できるだけ医療費を削減するために、医師の数を減らし、保険点数をどんどん低下させ、新しい医療技術を認可せず、検査は最小限にとどめ、「できるだけ患者の希望を通すな!」ということになります。
切り捨てられる患者
未来の高齢化社会を考えると、重症患者切り捨ては正当です。99%の患者を救うために1%の重症患者をやむを得ず切り捨てます。
では、どういう患者が日本の医療に切り捨てられるでしょう(美容を除く)? 例を挙げると、高齢で起こる病気(難聴、歩行困難、更年期症、認知症、変形など)、慢性的で治りにくい病気(治りにくい痛み、後遺症、しびれなど)、診断名が付けにくい病気(複数の病気が重なった場合、症状があっても診断基準を満たさない)、原因がわかっていない病気(線維筋痛症 慢性疲労症候群など)、手のかかる患者(重症の患者、治療箇所が多い患者など)、治らないとされているもの(難聴、めまい、味覚嗅覚異常、自律神経失調症、神経内科的病気)の大部分。
これらに該当する患者は切り捨てられます。無治療というわけではありませんが、値段の安い治療しか認可されていませんので、お金のかかる治療をしてはいけないという意味で切り捨てられます。
切り捨ての典型例は「同じ薬を定期的に処方」が延々繰り返される、精神科を案内される、検査を入れてもらえない・・・などです。
患者の希望を取り入れた医療
私は医者になりたての頃から「患者の希望を叶える医療」を心がけてきました。それは今から思うと、まさに国家や教授、学会への反逆医療でした。
例えば「膝が痛い」という患者には患者の希望する回数の注射を行いました。2日で痛みがぶり返すのなら、1日おきに週3回の注射をしました。
また、保険が通らない薬は、使っても「使っていないこと」にしてお金を請求しませんでした。請求しないことも不正の一つです(これらは過去の話です)。とにかく、患者の希望を叶えるという「やってはいけない医療」に全力をかけて生きてきました。しかし、その恩恵は極めて高く、治せない症状を治すことができる技術が身につきました。
患者の心理は高性能診断機器
私たち医師は「患者の心を無視する」ように教育されます。ガイドラインに忠実であることを要求されます。そして知らず知らずに患者の心が極めて高性能な診断機器であることを忘れるようになります。
例えば、とても痛い注射をして、患者の症状を少しだけ除去できたとしましょう。患者は症状が改善した喜びよりも、痛い注射におびえ、「次に同じ注射をしたくない」と思います。この感情は極めて高性能な計算機(脳)によって、「治療が成功しているようで成功していない」ことを意味しています。プラスとマイナスの差し引きがマイナスになっているからです。副作用も同じです。注射で膝の痛みは軽快したが、薬剤で蕁麻疹が出て、注射をしたくなくなった。というのも、結果的に治療は不成功です。
しかし、膝に注射して蕁麻疹が出たが、それは二日で消え去り、その後2週間、膝が全く痛くなかった。という場合、患者はたとえ蕁麻疹が出ても、喜んで次の注射を受けに来ます。つまり治療成功です。成功か失敗かを決めるのは患者の感情です。しかし、感情は高性能な計算機である脳がはじき出しているものですから、その信憑性が極めて高いと言えます。
足の痺れが治らないという患者に硬膜外ブロックを行い、「わずかにしびれが軽くなった」という場合、治療を続けるかどうか?悩みます。ですが、患者に「治療を続けたいですか?」とたずね、「是非続けたい」と言う場合、たとえ効果が少ししかなくても治療を続けることが正解です。通院の労力、ブロックのリスク、かかる費用、そして症状の改善度・・・これらの総和がプラスだからこそ患者は治療を望むのですから。医師の一存で治療の継続を決めるよりも、患者の希望を叶えるほうが正しい結果を招くことが多いのです。その理由は患者の人生は患者にしかわからないものであり、患者の判断には極めて多くの計り知れない要素が判断材料に含まれているからです。
もちろん、患者の希望をかなえたことで、悪い結果となることもあります。しかし、全患者の統計をとれば、患者の希望を叶えるほうが正しい結果となることの方が圧倒的に高いはずです。なぜなら人間の脳は究極の未来予測計算機だからです。それを信じるか信じないか?が医師の器量なのです。器量のない医師は患者の言葉を信じません。常に医学書を信じます。そして多くの薬害を作るわけです。私はそうした薬害、手術害の尻拭い専門医です。毎日が他の医者たちが犯した医害の尻拭い業務を行っています。それができるのは患者の希望という高性能診断機器をおおむね信じているからです。
患者の希望が誤っている場合
患者の希望や感情が正しくないこともあります。患者は自分の病気の長期予測ができないからです。医師は治療して1年後の患者、10年後の患者、20年後の患者を同時に診察することにより、病気の未来の姿を知ることができます。しかし、患者は自分の症状の未来の姿を予測できませんので、患者が希望する治療や検査が無意味となる場合があります。よって、患者の希望や感情に任せて診療を進めると、無意味な治療や検査に大金をかけることになり無駄となることがあります。そうした医療費の無駄遣いをなくす上で「患者の希望をかなえないこと」は国政にとっては有益です。
面倒くさい患者の希望
患者の希望が本当に間違っているかどうかを判断できるのは、「患者の希望を叶える治療をやったことがある医師」だけです。ここが重要です。
予期せぬ副作用やリスク、失敗に遭遇するのは、多くの場合患者の希望(感情)を無視した場合です。なぜなら患者は本人しか知らない特異体質を持っている場合があり、そこから来る不安を無視して行う医療ではリスクが極端に高くなります。患者が不安を感じている治療を無理に行わないことが医療事故を防ぐ上で極めて重要です。患者の漠然とした感情(不安や期待感)を治療に活かす医師は、そうした1000分の1にしか起きないリスクを回避することができます。しかし、それは「患者のたわごと」につきあうことを意味しますので、医師にとっては極めて面倒なことです。中にはオカルト現象までしゃべりだす患者もいますのでつきあうのは大変です。
特異体質を持っている患者の場合、過去にちょっとした治療で予期せぬからだの不具合を起こした経験を多く持っています。だから患者は病院にかかる時は何科にかかるときでも不安をかかえています。よかれと思って行った治療が裏目に出ることが多いからです。しかし、医師の前でそれを説明したところで理解を示してもらえないことを患者は知っているので口に出すことは少ないでしょう。患者は「何か起こった場合にデリケートに対応してほしい」という気持ちがあるのですが、医師にとっては一人だけ特別扱いはできませんので無視することになります(特別扱いすると人件費が数倍かかりますが、治療費は同じなので赤字になります)。
しかし、リスク回避の真髄は患者の特異体質に医師がどれだけ対応できるかにかかっており、それらは医学書には載っていないため、医師の経験値が頼りです。それを無視した代償は重大な医療事故として返ってきます。「患者の希望NG」とする日本の医療では、こうした重大な事故をなかなか回避できません。
同様に、患者が抱く不安が間違っている可能性がありますが、その判断ができるのもまた「患者の希望を叶える治療をやったことがある医師」だけです。面倒なことをやった医師だけが得る経験値です。偉い教授先生たちはそうした経験値がおそらくゼロです。
必要にあわせる医療は別次元の医療
どんなに変形した骨格を持っている患者でも、ほとんど「家の中だけで過ごす患者」の場合、手術の必要はありません。逆に変形もないのに、肘が痛くて試合ができないプロゴルファーの場合、手術が必要なことさえあります。このように「治療が必要か必要でないか?」は患者の社会背景によって変化します。これらを全く無視することを指導しているのが日本の医療です。
必要な治療回数は肉体労働をしている人とデスクワークをしている人とでは全くことなります。肉体労働をしている人の腰痛・膝痛を「仕事ができるレベル」で治療するためには、ほぼ毎週の注射が必要です。またデスクワークの患者では月に1回で十分に生活が送れます。よって肉体労働者は「毎週注射をしてほしい」「仕事が続く限り半永久的に治療をしてほしい」と希望します。当然ながら現在の日本の医療ではこうした患者の希望を叶えることは禁止されています。
さて、患者の必要にあわせて治療をするということは、その患者の幸福を考えて治療することを意味しますが、そのために医師は全力でリスクを回避しなければなりません。治ればよいというものではなく、合併症を作らずに、リスクを極めて小さく・・・を実践すれば、患者の必要度が増すからです。つまり、患者の希望を叶える治療は「その治療のリスクによって治療回数が変化する」ことが必然となります。リスクが小さくできるなら、患者の希望が増し、リスクが大きいなら患者は治療を希望しなくなります。ならば、患者の必要にあわせる医療は、医師の腕に大きく影響されます。腕が良い医師ほど患者から多数回の治療を要求され、それに呼応する毎に医師の実力が上がります。それは患者の社会生活の程度に応じて治療の質や量を変える医療ですので、いろんな患者の社会生活まで理解できるようになり、患者の治療要求を満たすことができるようになります。これが医師の究極のあるべき姿です。そして残念なことに「あるべき姿」が国家レベルで禁止されています。なにせ「患者の希望はNG」ですから。
患者の希望を無視する医療は医学の発展を妨げる
患者の幸せのために医療が進歩することを国家は禁止しています。では、何のために医療は進歩するのでしょう? 多くは医学部の教授が自分の業績をあげるために医療が進歩します。もちろんそれはよいでしょう。進歩することには変わりないのですから。
国は国民の幸せを考えるのではなく、国民の寿命という数字を考えます。つまり生活の質を向上させるための医療を認めていません。
さて、私はそうした現代医療の体制に真っ向逆らって生きてきました。その結果をご覧ください。大学病院で治らない数々の難病を改善させることができます。しかもほぼ全ての科に渡る疾患です。もちろん、手術などのダイナミックなことはできません。しかし、患者の生活の質をあげるための医療としては極めて優秀です。
名もない一人の小さな医師が、現医療体制に逆らって治療してきただけでこれほどの偉業ができるようになるわけですから、現医療体制がどれほど医療の進歩・発展を妨げているのか?が理解できるでしょう。
しかし、そうでもしなければ医療財政が崩壊するので、やむを得ず国家レベルで「患者本位の医療を禁止している」という現状を知らなければなりません。
患者の希望を無視すると重大事故(死亡例)が多発する
今年8月2日に「群馬大病院で同じ男性医師の手術を受けた患者が相次いで死亡した問題で、群馬大は2日、東京都内で会見し、執刀した男性医師や元上司の教授ら計9人の処分を発表。」とありました。こうした死亡例の原因を調査した木村孟元東工大学長)の最終提言には「死亡事例が繰り返された背景として、医師の3分の2が群馬大出身者で占められ、先輩や恩師に発言しにくい風土と、県内唯一の大学病院として地域医療の頂点にある独特なヒエラルキーを指摘。当該診療科で、医師が真の意味での患者本位の医療を提供する視点を備えられなかった。」としました。
患者本位の医療を提供しないことは重大な医療事故につながることを述べていますが・・・これには苦言を言わざるを得ません。「患者本位を国家が禁止」しているからです。患者の希望による検査、患者の希望による治療、を保険制度側は断固禁止しています。国家が禁止しているせいで患者本位の視点に立てないというのに、死亡例が続くと「患者本意の治療ができていないからだ」という報告で終わらせてしまうところに、この国の危うさを感じます。この群馬大学医学部の問題は、大学側の問題と言う小さなものではなく、国家レベルの低コスト医療が根本にあることを国の責任として考えるべき問題です。教授を含め9人の処分とありますが、それはこの9人が見せしめにされて、小さな事件にされてしまっただけのことであり、実際は「患者の希望を通さない医療を指導している」国家の責任とも言えるのです。国民の皆様にはどうかこのことを強く心に留めていただきたいと思います。国を動かせるのは国民の1票、世論だけだからです。
インターネット時代の患者の希望は無視できない
現代の患者たちはインターネットを通じて最先端の医療、最先端の代替医療があることを簡単に調べることができます。その情報は医師の知識を上回ります。つまり、患者の知恵が医者の知恵を上回ることがあります。よって、患者が提案する治療や検査を行うことで新たな病気が発見されたり、奇蹟的な改善を見せる治療を開発できたり、極めて効果の高い医療を行うことができることが多々あることを私は臨床現場で経験しています。
そして、患者が危険と感じた治療を無理に勧めないことでリスク回避できることも経験します(時には無理に勧めることもあります)。よって患者の希望を取り入れることを禁じた厚生労働省の方針は、明らかに時代と逆行していると思います(医療費緊縮財政ですのでやむを得ませんが)。
そして実際に各種医学学会は効果的な治療を見つけられず、私のような名もない医者が治療法を次々と開発するに至っています。私は単に「患者の意向に沿う治療」をしているだけのことです。それだけで、新たな治療法を次々と見つけることができます。そうであるならば、行政がいかに医学の進歩を妨げているか?考えさせられてしまいます。財政が苦しいことは承知しています。しかし、せめて患者の意向が反映される医療にならないものか?と考えてしまいます。
私の声が国家に届くことはないかもしれませんが、国民の一人ひとりの声は届くかもしれません。患者本位の医療が国家レベルで推奨されるように願っています。
初めてまして。よろしくお願いします。このような相談内容は、先生には初めてかと思いますが、見捨てず最後までお読み頂ければと思います。私は初めての美容皮膚科で肌にハリが出るからいいよ。自分の細胞が元気になるだけで副作用もないからと目の下にfgfを注射されました。結果は想定外に膨らんでしまい、膨らんだ後は減らす事も出来ず、相談にいってもそんなん症例はない、気になるならケナコルトを打てば凹むと。
全国色んな病院を回りましたが、美容整形の失敗についてはどこも冷たく、自業自独という対応をされます。これが癌宣告であれば同情もされ、情報も沢山集まってきます。私はまだ症状が軽い方ですが、顔全体が肥大した方、これがきっかけで膠原病になった方、増殖期で痛みがあり寝る事も出来ないからが沢山います。引き篭もりになった方、自殺した方もいらっしゃるかも知れません。皆さん精神安定剤を飲んでどうにか毎日出口のない道を歩いています。
http://tsurumaikouenn.blogspot.jp/2012/02/prpbfgf.html?m=1
危険と呼びかけている先生もいますが、注射だけで大儲け出来るので、まだまだ治療されております。沢山の被害者が自費で修正の為に全国を回ったり、医師の言い値でケナコルトを打ってもらったりとそれでもなかなか回復はしません。今回のご相談は常識な目線でしかこの問題に取り組めない医師では解決出来ないと思い、色んな目線から考えてくださる先生を見つけないと道は開かないと思い、先生のページに辿りつきました。
突然のメールで大変失礼かと思いますが、一度直接お話しを聞いて頂けないでしょうか。
よろしくお願いします。
もちは餅屋というものがありまして、私には皮膚疾患は全く門外漢です。いろんな目線はありますが、自分の分野の治療のことを考えるのが精一杯です。被害者をひとまとめにして美容外科学会におおなたを振るいたいのであれば、敵は美容学会ではなくアメリカ合衆国であると知っておいたほうがよいと思います。日本の被害者たちが米国を相手に訴えることができるか?というところにたどりつきます。敵は日本の美容界というちっぽけなものではありません。
医学界には非常に多くのトラブルが常にあり、それをあかるみにすると困る企業(製薬会社など)がたくさんあります。リスクを訴え、使用自体をできないようにするまでがんばるには、様々な敵と命をかけて戦わなければなりません。その戦いには家族や知人も全て巻き込まれます。場合によっては暗殺されることもあります。
正義感が強いよいうことはよくわかりました。しかし、どこをゴールにして戦いを挑むのか?はあらかじめ決めておいたほうがよいと思います。ゴールの設定によっては戦いは極めて大きくなるからです。やぶをつついて蛇を出す・・・ではありませんが、医学界をつつけば必ず米国が出てきますのでそのことは頭に入れておいたほうがよいでしょう。私からできるアドバイスはこのくらいです。直接話を聞くことはございません。もし、話したいことがあればここにお書き込み下さい。
ちなみにケナコルトをうてばへこむというような単純な問題ではありませんので、ケナコルトにも危険が潜んでいるということを皆様にお伝え下さると助かります。