宣伝はご法度

今日はこの医院の内科にはかかっているが整形外科には初めてかかるという高齢者が私の元にやってきた。住所を見ると長崎市と書いてある。かなり遠方だ。 「どうしたんですか?」 「膝が痛いんです。地元の病院で手術するしかないと言われているんですが本人はする気がありません。なのでリハビリをしてもらいたいんです。」 高齢者の患者の娘がそのように答えた。
「わかりました。お住まいは長崎と書いてありますが、こちらにはどれくらい滞在されるんですか?」 滞在日数によって治療方針も変わるのでまずはそれを訊ねる。 「当分はこちらにいます。あちらの病院では治療してもらえないので私がここに呼んだんです。」 「治療してもらえないって…どんなことをしてもらっていたんですか?」 「薬だけしかもらえません。リハビリをしてもらえないんです。だからリハビリをさせてあげたくて東京に呼んだんです。」
なかなか親子孝行娘だなあと感心はするものの、視野の狭さと偏見をどうしようかなあと私は考えていた。というのもこんなふうに最初から治療方法まで指定してくる患者は「リハビリしか治療方法がない」と本当にそう思っている。医者がどう説明しても聞き入れないことが多いのだ。実際にこの患者は「手術しかない」と言われているわけで、他の医者にそういわれているのだからどこも同じだろうと考えるのは一応理にかなっている。
「お膝のどこが痛いんですか?」 「この辺です」 彼女は膝の内側をさすってそう言った。確かにそこは変形の膝で痛みの来る場所だ。膝の変形があることは間違いないだろう。 「注射はされたことがないのですか?」 「勧められたこともありません。」
私は驚いた。注射治療も勧めないでいきなり「手術しかない」などと彼女の担当医は言っているわけだからその医者は相当なやぶ医者だ。そんなやぶ医者は彼女を説得して手術を受けさせようとして「手術しかない」と言っているわけではなかろう。手術は彼女から逃げるための口実だ。
医者は「あなたの病気は治りません」とは言わず「手術しかない」という言い方をする。「治す自信がない病気」に対して使うごく一般的な詭弁というやつだ。医者の多くは「治す腕がない」ことを認めず「手術しかない」と患者の病状のせいにしようとし、どうせ断るにきまっているから患者自らあきらめて「これ以上病状を訴えること」を言わせないでおとなしく薬だけの治療に従わせようとする卑劣な誘導尋問だ。この手の誘導に患者はほとんど騙される。
さてなぜ治す自信がないのか?は彼女を見てすぐにわかった。彼女の膝は相撲取りのような極太の膝をしていた。こういう患者に注射をするには医者の側に相当な技量と根性と自己犠牲の精神がいる。地元の担当医には「こんな膝に注射ができるわけがない」とはじめからさじを投げられているのだろう。まあ、医者から見れば厄介な患者に違いない。
さて、私の診察技術はここからが本番だ。私はもともと彼女の症状が「膝が悪いだけのはずがない」という診方をする。この年齢でこの肥満。必ず脊柱管狭窄症があるはずだからそれを聞きださなければならないという診察方法だ。
患者の訴えだけからは「膝が悪い」としか思えないが必ず他に腰由来の病気があるに違いないと予想する。私の診断力が高いのはこの「予測に基づく診察」をしているからと自負している。
「歩いているとどのくらいで足がだるくなってきますか?」 さっそく彼女に質問する。さきほどの「膝が痛い」という患者の訴えとまるっきり的外れな質問であるが… なんと娘が答えた。 「5分もしないうちにだるいだるいって言って歩くのをやめるんです」 まさに私が想定していた通りの返答だった。
的外れな質問をしたのに、ズバリ核心をついた回答が返ってくる。この問答のおかげで診察時間を短縮できてかつ真実を追究できるということは言うまでもない。これがわたし流の診察の奥義だ。
5分で歩くのをやめる。これはまさに脊柱管狭窄症の症状に一致する。やはりこの患者の一番の問題点は「継続して歩けない」ことであった。娘はそれを膝が悪いせいだと思っている。大きな勘違いだ。
シロートがそう勘違いしてもやむを得ない。なにせ一般的な整形外科医も膝痛の患者に脊柱管狭窄症が隠れていることを見破ることができないものなのだから。というよりもほとんどの医者が見破ろうとしない。なぜなら脊柱管狭窄症を治せないからだ。
目の前の患者が膝の痛みを訴えているのなら、わざわざ自分が治せない病気を看破してカルテにその診断名をつけることはしない。なぜなら診断名はあくまでも治療のために病名を書くわけであって、治療できないのならそもそもカルテにその病名を書く必要性がない。ましてや治せない病名を正直に書くことは自分のプライドを著しく傷つける。
こういう心理が働くことによって無意識に患者の真の病状診察をしなくなる傾向がある。 敢えていうが私は治せる自信があるからこそ、隠れた病気を見つけ出すわけだ。
「途中で歩けなくなるという症状は膝の病気ではありませんね。腰から来る神経の病気です。ですから膝を手術したってよくなりませんし、きちんと治すには膝よりもむしろ腰の治療が必要になりますよ。」 「そんなことは初めて言われました。」と娘が言った。
ま、信じようと信じまいと勝手だ。信じないのなら彼女は私の治療を受けないだろう。そして他の医者にかかっても治せないだろうから、彼女はこの病気をひきずることになるだろう。そして彼女たち親子の将来が見える。近い将来5分で歩けなくなるというのが3分、1分となり、母親の介護が著しく困難になるだろうことが予想される。娘は自分の家族を巻き沿いにして介護地獄にひきずりこまれる。そんな絵図が非常に高い確率で予想される。
そう、娘が私のことを信じるか信じないか?そんなことは彼女の勝手だ。だがその勝手のおかげでこの親子の人生が変わる。親子ともども地獄を見るか見ないか?の大きなわかれ道となる。
わざわざ長崎から母を連れ出した彼女は偉いが人を見る目がないおかげでとりかえしのつかないことになりうる。 「膝の治療はしますが、それよりも腰の病気を何とかしないと取り返しがつかないことになりますよ」 「私はここにリハビリをしてもらいに来たんですけど…」 娘は全く私の話を信じていない様子だ。さあどうする!
私は月に何人かはこのようなバカ親子に遭遇する。バカにつける薬はないと最初はあきらめていたが、だが「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がよぎる。
私の助言を無視させたままこの親子を放置すれば将来どうなるかの予想がたやすく見える。今の私にはそれを防ぐ力がある。ならばどんなことがあっても断行せよ。そうもう一人の私が叫ぶ。 「ブロック注射をすれば今の足がだるくなるという症状がとれますよ。」
「そのブロック注射にリスクはないんですか?」 「もちろん多少のリスクはあります。しかし、私はそのリスクがほとんどないと言えるほどに安全にできる技術を持っています。まあ、こう言っても初めて私を目の前にして信じられるわけないでしょうけどね…私はいろんな困難に挑戦しますが、初対面の患者を信じさせることがもっとも困難なんです。」 と…、目の前にいる医者が治療の達人であることを信じさせようと努力するが、この娘には無理そうだ。
「治るんですか?」 「それはあなた様が治るという日本語をどういう意味で考えているかによって答えは変わります。たった1本の注射で完全に若返ったようになるというような魔法を治ると考えているのでしたら、治ると言うことは無理だときっぱり言います。第一、今まで他の医者にかかっていて、その医者たちが治せなかった病気を私が注射1本で治るといくら言ったところで信じないでしょう?」 「治してくれると言うのなら別になんでもいいんです」
なんとも無礼極まりない娘だ。私はすでにこういう患者を何人も治してきたが中には非常に治りにくい患者もわずかにいるものだ。治るか治らないか?は患者が自らの将来をかけて挑戦することであって私が保証するものではない。にもかかわらず治ると言う保証を確約しない限り治療を受けないという構えだ。根が腐っている。
「何もここで手術しようって言っているわけではないんですよ。命を賭けなさいと言っているわけではありませんよ。注射1本受けませんか?という話をしているんですよ。少しでも今よりも治ればいいと思いませんか?」 「どこまで治るんですか?」 このバカ娘は本当に話にならなかった。
「一本の注射で治った人は私の患者には多いですよ。ですが、そういう患者様でも1ヶ月後には自分で傷めつけて、また再発させてくるんです。あなた様はこの場合、1ヶ月間病状が出なかったことを治ったととるか治ってないととるかどっちですか?それによって答えが変わるじゃないですか。」 「自分で傷つけるようなことをしなければ治るんですね?」
ここまでひねくれた物の考え方をする人は少し珍しい。私の言い方が勘にさわっているのだろうと予想がつく。が、勘にさわっているのはむしろ私のほうだ。
「高齢者になれば風が吹いてよろけただけでも神経に傷がつくんですよ。日常生活で普通に生活していても普通に傷がつくんです。治しても治してもすぐに傷つけてくるんですよ。それでもね、1か月楽な生活を送れるのなら、それは治したことになっているっていうことがわかりませんか?」 「治してくれるんならいいんです」
私も少々イライラしている。どうして私のことをここまで信用しない人たちに全力の治療をしなければならないんだという嘆きだ。 私は治療することに専念したい。だがその前に注射の効果を、安全性を、そして注射が痛くないことを、さらに最後に治療できるということをどうやったら初対面のわからずやに信用させることができるかという課題にぶつかる。
開業医なら簡単だ。待合室に注射の効果、安全性などに関するポスターを貼って患者の理解を事前にとっておくという手がある。 だが、私の場合何一つ宣伝をさせてもらえない立場なのだ。その理由は何度も述べた。私は院長よりも目立ってはいけない存在。院長でもない非常勤の医師の技術を宣伝するポスターを貼るということは院長の顔に泥を塗るようなこと。ましてや私は他の医者が治せない病気を治すという極めて特殊なことばかりやってきた。特殊がゆえに宣伝することはキチガイじみているのだろう。治せないものを治すと言うだけですでに胡散臭いと思われる。しかも、経営者たちは私が「他の医者が治せないものばかりを治せる」ということを知らない。単に「少し腕がよくてしゃべりがうまいから患者が集まる」としか思っていないだろう。
以前の医院で「寝た切り予防の治療をやっています」というポスターを待合室などに貼ってほしいと理事長に交渉したが断られた。私は本当に寝たきりになる予備軍を、そうなる前に防ぎたいという一心だった。しかし、ポスターの内容は「自慢」としか判断されなかったようだ。
はっきり言おう。私がこんな小さな医院で自慢して患者数を増やして何の得があるというのだろう。患者が少ない方がパートの医者にとっては楽で快適。能力給をくれないところではりきったところでメリットはない。患者はこれ以上増えてほしくない。なのに宣伝させてほしいと頼み込む私の心意気を彼らは何だと思っているのだろう。
当時私は院長の倍以上の売り上げを出し、夜の8時まで奉仕残業するほど患者からの人気を得ていたが、私の治療内容を宣伝するような文章はネットのホームページにもポスターにも一切なかった。まあその方が結果的にありがたいが。
私はパートの医者だけに、正直言うと宣伝も人気も欲しくない。いくら忙しくても給料は一定。患者が増え過ぎればそれだけ一人一人をしっかり診ることができないからだ。ただしそのおかげで初診の患者には全く信用されない。おかげで目の前の親子を助けることが出来ないわけだ。
誠に不利なポジションで診療している。爪を隠して診療をする鷹だ。だがやりにくい。開業すればこんな馬鹿げた悩みから解放される(開業医はHPで自分の能力を宣伝してはならないことがH30/6/1に医師法に追加された)。
治せないものを治す。それは多くの医者のプライドを傷つける。だから私は雇われるべきではない。能ある医者はつぶされる。そんな日本の医療だが私は腐ることなく毎日自分磨きに精を出している。そして私のような志の医者は少ないが全国にちらほら存在する。 そういう医者は巡り合えたとしても同じ所に長くはとどまっていられない。周囲には厄介がられるから転々とする運命にある。 さて、この親子だが、私はそれでもあきらめない。
「では今日はためしに膝に1本、腰に1本だけ注射させていただけませんか? 本当に騙されたと思って注射を受けてほしいんです。もちろんリスクのある注射はしません。軽いものをします。その結果を次回聞かせていただいて、その時にまた次の注射について話し合いたいと思うのですが…」 このように言ってなんとか注射を受けてもらうことに成功した。もちろん腰部硬膜外ブロックはできるはずもない。
しかし実際はこのような言い回しで患者に注射を受けさせてはならない。なぜなら、もしも万一不都合なことが起これば、この言い回しでは起訴されて敗訴することがあるからだ。「騙されたと思って…」という言い回しは医者としては絶対に言ってはならないきんくである。セールスマンじゃないのだから。
だが「義をみてせざるは勇なきなり」という言葉がよぎる。この親子を騙してでも注射をしてあげなければ将来に起こりうる難題を背負わせることになる。だったら万一のことがあったら責任を全て負う覚悟で治療をしてあげようと考える。これは私のオトコギだ。
もちろん万一のことなど起こることはないと言えるレベルにまで注射の技術が熟練しているから責任を負う覚悟ができるのだが…なにせ彼女は肥満で高齢なので注射が極端に難しい。まあ、それをやるのが心意気だ。 しかし他の医者には私のような無謀なことはしないでほしいと思う。