「今日はいかがですか?」
患者の顔と病気の全てを記憶しているわけではないから、カルテを見る前に入ってきた患者にあいさつがてらこう質問する。そうして彼女が答えている間にカルテの最新ページを開け、診療の準備をする。
「はい、おかげさまで驚くように痛みがとれました。ありがとうございます。」
私にとってこの返答はほぼ当たり前。毎回全力で治療しているので次回の診察ではほとんどの患者が前回よりも改善している。だからうれしくも何ともない。私にとって普通の返答だから感情はぴくりとも動かない。
だがカルテを見て「!!!」少し状況が変った。
それは先週、彼女を診察したときの出来事を思い出したからだ。
「先生、左の人差し指が痛いんです」
「人差し指のどこが痛いんですか?」
私は最初、ばね指(腱鞘炎の一種で指の動きがかくかくとひっかかる病気)かと思ったのだが、そうではなかった。
「この指の先端に少しでも物が当たると痛くてしかたないんです」
そうやって彼女は人差し指を私に見せたが外見はどこも変わりがない。だが、この状況がやっかいな病気であることはピンと来た。
「いつごろから痛いのですか?」
「え~と、5~6年前からです。どこのお医者さんにかかっても全然良くならなくて…でも痛くて仕方ないんです。それで、先週、ネットで調べて麻酔科に予約しようとしたら、3ヶ月待ちだと言われたんです。私、3ヶ月も待てないのでとりあえずと思って今日来ました。」
あれま~~と言った感じ。3ヶ月待てないからここに来たといういい方は結構失礼な話だが彼女の気持ちは正直なところだろう。彼女の病状は恐らく神経の先端が過剰に増殖して痛覚過敏になった状態だと推測した。何かの刺激で神経が損傷を受け、その神経が再生する際に過剰に増殖してトグロを巻いている…といったところだろうか。これは整形外科の領域で治療できる代物ではない。やはり彼女の言うように麻酔科にかかったほうがいいだろうとピンと来た。
もちろん彼女もこの5~6年間、さんざん困った挙句、やっと麻酔科にかかるという方法を見つけたに違いない。それにしても3ヶ月待ち…。そうなのだ。整形外科医が治療できない痛みは麻酔科がひきうけることが多い。しかし、麻酔科医は多くないので有名なペインクリニックには予約が殺到していて半年待ちも普通という状況だ。そこで私のところに運よく?来院したようだ。だが私にとってもこのような症例ははじめてのこと。ステロイドを注射して痛みを取り除いてあげたいが、炎症を起こしている神経が存在する指の先に注射をすることは激痛をともなう。その注射はあまりにも痛いので拷問であり、私でさえ躊躇する。しかもその注射で治る保証もないから、彼女にとっては私の治療で「気絶するほどの痛みを味わっただけ」で終わることも考えられる。悩んだ挙句彼女にこう説明した。
「その痛みを治療する方法で最善なのは、その痛みの部分に注射をすることだと思いますが、そこに注射をすることは気絶するくらいの激痛を伴います。」
「ええ~つ、そんなに痛いのですか?」
「指先ですからとても痛いと思います。しかも神経過敏が起こっている場所ですから」
彼女の顔は青くなっていた。手を見ると冷や汗がにじんでいた。
「ですが、せっかくここに来て、そのまま何もせず帰すのも気の毒なので私としてはベストを尽くしてみようと思います。」
「何をするんですか?」
「まずは指の神経をブロックして指先の痛みを感じさせなくしてから注射しようと思います。」
「え~っ、麻酔するんですか?痛いんでしょう?しかも二度も注射するなんてイヤです。」
彼女は血相を変えて麻酔をすることを拒否してきた。その気持ち、わからないでもないがその考えはあまりにも浅はかとしか言いようがない。治療の痛みを激減させるために手をかけようというのに、それを拒否するのだから…。
「申し訳ありませんが、私も人の子ですから、あなたに麻酔もせずに指先に注射するというような拷問はできません。そこまで痛い目にあわせて平気でいられるほど冷たい人間でいられません。」
「だって、麻酔も痛いでしょう?」
もちろん、麻酔だって指にするのだから痛いに決まっている。麻酔にも激痛が伴うのが普通だ。しかし私は特殊な注射方法を身に着けていて指の麻酔をほぼ無痛に近い状態で行える技術を持っている。もちろんそんなことを彼女が知るはずもない。普通に考えれば一度の注射ですむものが二度注射されて損をするという単純な考えになるだろう。私の麻酔の注射があまり痛くないものだと説得するすべがない。
「はっきり言いますが、麻酔科の先生でさえ、ブロックするための下準備麻酔をするというような面倒なことをしてくれないのが普通です。今日、私が治療するのと、後日他の先生にブロックしてもらうのと、痛みが大幅に違います。他の先生にやってもらうと耐えられないくらいに痛いですよ。」
私は痛くない注射をすることに全力を挙げて修業してきた特殊な医者だ。そのことは初対面の彼女には知る由もないが、私以外の医者に指先の注射をさせることはかわいそうなことだということは知っている。だから他の医者が手をつけられない困難な治療とはいえ、私の「痛くない治療」を受けさせてあげたい。だからこういう言い方をしてしまう。偉そうに聞こえるかもしれないが、一切自慢しているわけではない。
「わかりました。やってください。」
彼女の手は冷や汗でにじんでいたが、決心してくれたようだ。
ここからは早い。まずはオベルスト麻酔という方法で人指の神経を麻痺させる。もちろんあまり痛くさせない手技を使ってだ。そして麻酔が効いてから指先に注射する。もちろんこれは全く痛くない。説得してから治療が終わるまでの時間は短い。
「先生、痛くありませんでした」
彼女は麻酔の注射は激痛を伴うものと思っていたはずだから、ほとんど痛みなく一連の治療が終わったことに驚いていた。もちろん私は自分の治療が痛くさせない治療であることを百も承知だが、それは治療を受けた者にしかわからないこと。だから説得するのに骨が折れる。痛くない治療とはいえ、無痛ではないので「痛くないですよ」とも言えない。ただただ、治療を受けて痛みのないことに感動した患者に、結果的に賛同してもらう以外にない。
「痛みが少なくてよかったですね。注射の結果がどう出るかはわかりませんので、来週教えに来てくださいね。その状況に応じてまた治療を考えますので…おだいじに」
…これが先週の状況だった。
5~6年間何をやっても無駄で医者から見放された指先の痛み…これに初めて本格的に治療したわけだが…その結果が
「はい、おかげさまで驚くように痛みがとれました。ありがとうございます。」
だったのだ。
「指先にほんのわずかに痛みが残っていますが、以前から比べると嘘のように痛みがとれました。あまりにもよくなったので驚いています。」
「それはよかったですねえ」
私もこれには本心からよろこんだ。
「今日も同じ治療をなさいますか?」
「はい、お願いします」
今日の彼女は間髪入れず「お願いします」と返答した。
もちろん前回と同じように、下準備の麻酔をしてから指先に注射治療を施す。彼女にとっては苦痛を伴わず治療できるわけだからこれほど幸せなことはない。一件落着!
私はカルテに今の治療を「左示指神経ブロック、局所麻酔」、と表記した。
すると事務の男の子が後に私のところにやってきて、「先生、この左示指神経ブロックというのは、保険請求の項目にありません。どういう手技で請求すればいいですか?」と訊きにやってきた。私の行う治療は保険項目に掲載されていないものがほとんどだ。なぜなら既存の注射方法を応用し、発展させてあみ出した私特有の注射手技ばかりだからだ。どんなに効果が素晴らしくても、保険請求額はめっぽう安い。
「ここに神経幹内注射というのがありますが、これでいいですか?」
「ああ、それでいいよ」
と言ったものの私はその保険請求点数に驚いた。たったの25点。これはつまり250円ということ。患者が支払うのはその3割なので75円ということだ。
恩着せがましく言うわけではないが、この5~6年間、彼女はいろんな病院を走り回り、交通費と時間と手間とお金を莫大にかけ、それで治ることなく私のところにやってきたのだ。その手間暇と実費を換算すると2~300万円にはなるだろう。
私はそれをたった二度の治療で完治に近い状態にした。その実費は3000円といったところだろう。しかも今回の手技料は実費で75円!こんなバカバカしい医療制度でいったいどうするのだろう? 優秀な医者が最短距離で最高の治療をすると我々のふところにお金が入らないどころかただ同然の値段。医者が優秀であればあるほど報酬は少なくなる。しかも少なくなり方がひどい。半分になるというどころの騒ぎではなく、何十分の一の報酬となる。これは理不尽を通り越して犯罪だろう。
患者を治療せず、延々とリハビリに来させる医者は大もうけで、私のように即効で治療してしまうと報酬は何十分の一、いや何百分の一。「さっさと病気を治療できる優秀な医師」は商業主義の病院にとってマイナスの存在。こんな状態では良質の医者ほど居場所がなくなってしまう。
事実私は何度もクビにされている。その恐怖や経営者の圧力に抵抗しつつ、自分の主義を曲げずに最短期間で患者を治療することに今でも全力をつくしている。経営者に赤字を食らわすことを「粋な行い」と考えている自分。その行いは報われないかもしれないが私は自分の主義を貫くことに生き甲斐を感じている。
ちなみにこれほど安い値段では、こんな治療は医者がやらなくなる。だからこれを「保険による治療潰し」という。保険点数が安すぎることで事実上、その治療がこの世から葬られたことを意味する。このようにして葬り去られた治療はかなりの数に上る。