私はやくざです

私の前に現れたのは医事課長(理事長の長男)だった。無論私は激怒している。彼がやってくるなり私は怒鳴りつけた。
「こんな同意書をとって責任逃れができるとでも思ってるのか? 硬膜外膿瘍とか神経損傷とか…そういうことが起これば、どのみち責任をとらなければならないんだ。私は患者にそういうことが起こったら全責任をとるという姿勢で治療しているんだ。他の病院のこんなくだらん同意書をもってくるんじゃない。」 「まあ、先生、冷静に…」
私は冷静にはならない。私は患者に不利益をもたらすことを毛嫌いしている。それが法的に認められている同意書であろうが関係ない。医療従事者が責任を逃れようとするためにサインさせるなどということは言語道断!しかし、この考え方は一般的には私のほうが頭がおかしいと思われる。だから怒鳴り上げて自分の意見を無理やり通すしかないのだ。それがはじめからわかっている。だからやくざのように怒鳴っている。
彼は続けた 「一般的な硬膜外ブロックの同意書はこうなっています。それ以外のことを書くのはよろしくないかと…」
「あんたはこんな同意書が何の意味ももっていないことを知らないのか?事故が起こればどうしたって責任取らなきゃならないんだぞ。同意書とったから事故が無視されるわけじゃないんだぞ。こんなでたらめにサインさせて、何が同意なんだ。おれが患者だったら、こんな合併症に同意なんかするもんか。」 「わかりますけど…同意書は公的なものなので…」
「いいか?俺がリスクの高い注射をするのは困っている患者を救うためなんだ。その責任はいつも俺一人で背負っている。そういう崖っぷちに自分を追い込みながら仕事している。何かあったら責任を取るのが当然。そういう緊張感を常に持っているからこそ事故をおこさないんだ。」 「そんなに自分を追い込んで窮屈じゃないですか?」 さすがにこれにはキレた。
「お前、こんな同意書書いたことへの謝罪しにきたんじゃないのか? お前に俺の何がわかるんだ。出て行け。もう出て行けよ。」 「私は胸ぐらをつかみそして相手の胸元を強く叩いた。」
彼の形相も激しくなった 「私のこと叩きましたね」 「ああ、叩いたよ。だから診断書書いてもらって俺を訴えてここをやめさせてみろよ。お前がやめるか俺がやめるか互いのクビをかけようじゃないか。それでいいんだな?」
ここまで言うと彼はまずいと思ったのか急に語調がやわらかくなった。 「いやあ、そんなつもりじゃあ」 「私のこと叩きましたねって言葉は、だから訴えるって意味があるだろう?いいぞ、訴えてみろ。お前は俺を誰だと思ってるんだ?」
「まあまあ冷静に」 「俺は単なるパートのアルバイターの医者だ。俺の首なんていつでも切れるだろう?だから首切ってみたらどうだ。いいか、俺は首になることなんか怖くねえぞ。俺はそうやって何度も首にされているからなあ。お前と首のかけあいするか?」 「そんな…やくざじゃないですか…」
「俺はサムライ…」本当はこう言いたかったのだが彼にそう言っても意味が分からないだろうから単なるパートの医者と言った。自分を崖っぷちに立たせて生きている者にしかサムライの意味はわからない。だから彼の思考の中で近いイメージのものを演じてやる。
「お前は俺がやくざだってしらなかったのか?理事長にも喧嘩売ること知らないのか?」 彼の視線は泳いでいた。もう彼はもう負け犬になっていた。だから私も引いた。
私を首にしようにも首にできないことは彼は多分知っていた。私は単なるパートの医者だが、この地域ではかなり名が通っている。極めて高い評判があるだけに私をやめさせれば経営が傾くほどの打撃が加わる。
ま、そうは言っても、ここまでたんか切る時は当然、いつやめてもいい覚悟はできている。「この医院の器には私がおさまり切るわけがない」そう思っているが、わりと好き勝手をやらせてくれているからここにいるだけなのだ。
「あんたの首なんかに興味はない。こんなくだらないことに首かけるほど俺の首は安くねえ。ただ、俺をなめるんじゃない。俺はいつでも命がけなんだ。その俺の診療を邪魔するやつは誰だって容赦しない。ただそれだけだよ。お前に俺の生き方はわからない。わかってもらいたくもない。」
「わかりました。いや、わかったと言ったら怒られるかもしれませんがわかりました。」 ころっと態度が変ったが彼の腹の中ではアッカンベーしているのが手をとるようにわかった。彼はこうやって自分を誤魔化しながら生きている。彼の人生が見えた。
「とにかく俺の書いた同意書をできるだけ忠実に採用して、その他を補足するという形で書き直してくれ。」 「わかりました。先生の同意書は説明同意書ということで理解しました。」 「そうしてくれ、もういいから帰ってくれ」
私にとって患者は私の命だ。患者を100%全力で治療することが私の趣味であり主義だ。患者を治療することをお金儲けのビジネスとしている人たちに私の心意気が伝わることなどない。そして最後に婦長に話しかけた。
「婦長、今回の一件は理事長にはナイショにしておいて欲しいです。これを表沙汰にすると理事長が私に気を使って余計な心配かけるでしょう。彼にとっても何も言わないのが得策でしょう。もちろん彼が理事長に話するのは自由ですけど…」 「わかりました」
「彼は私に向かって、そんなに自分を追い込んで窮屈じゃないですか?って言ってましたけど、自分で自分を追い込めば、誰にも追い込まれることなく、自由に生きられるということを彼は一生知ることはないでしょうね。」 「そうですね」
婦長は私の横でずっと私の仕事ぶりを見ているから、なんとなく理解しているようだ。患者の利益だけを考え、自分を崖っぷちに立たせて切磋琢磨する。それができないのならこんな医院、いつやめたって構わない。私は修羅を生きている。誰も近づけないほどの修羅の中を生きている。そうやって窮屈な世の中に自分のワールドを作って生きている。