さて今日はこんな患者がやってきた。
「今日はいかがですか?前回やった注射はどうでしたか?」
「腰が痛みます」
少し考えればわかるがこの会話は明らかに問いと回答が食い違っている。高齢者ではこのような食い違いが常に起こる。
ちなみに私は80歳を超えた女性の高齢者に腰部硬膜外ブロックという注射を2週連続で行った。症状は右下肢の神経痛で、立っていると痛みが増し台所仕事もできないというもの。この症状は全国どこの整形外科に行ってもそうそう治せない。「歳だから仕方がない」とつき返されるもの。
いや、実際は仕方ないもではない。私は現に数え切れないほどのこういう症状の患者を注射一つで治療してきた。完治する者も大勢いる。しかし注射が極めて難しい。そしてリスクが高い。高齢者の高度変形脊椎にブロックをすることは禁忌扱いにもされているほどである。
高齢者の場合、硬膜外ブロック注射でミスをすると呼吸停止、心停止などが起こることもある(若ければまず起こらない)。さらに背骨が高度に変形しているので注射しようにも針が入らない。この二つの理由で高齢者への腰部硬膜外ブロックは医者にとって清水の舞台から飛び降りるほどの勇気と大変高度な技術が必要になる。腕がなければそもそも実行することも不可能。リスクや責任も重くのしかかるためこういう患者にブロック注射を積極的にするクレイジーな医者は世界を探してもなかなかいない。だから「歳だから仕方ない」と患者に症状をあきらめさせていく方向に話をすすめる。しかし、私はそんな注射を2週連続で行っている。だから症状がどうなっているのか訊きたかったのだ。
「宇野(仮名)様、腰が痛いのはわかりますが、立っていると右の脚が痛くなるという症状はどうなさいましたか?」
「それはもう全然ありません」
この手の患者は非常に困る。治ったところは医者に申告することはせず、感謝の気持ちも何もない。そして痛みが残っているところだけを必死になって主張し、治してくれることを期待する。本来ならば
「おかげさまで右脚の痛みはすっかりよくなりました」
というのが筋であろう。他の医者が飛び降りることのしない清水の舞台から飛び降りて、自分の医者生命をかけた全力で治療にあたってこれほどまで感謝も何もされない。
私に言わせれば腰痛は針灸、マッサージでも軽快させることはできるが、右下肢の神経痛となれば治療が極めて困難。高齢者が寝たきりになるのはこの神経痛がきっかけだ。その致命的な症状を勇気を持って治療したにもかかわらず「腰が痛いです」と返ってくる。虚しい。まあ、患者に恩を着せるつもりは少しもないからこういう無礼も放置している。
「先生、それよりも前の注射をした後でめまいがしたんです。前の前の注射ではめまいはしなかったのに…私、ああいう怖い注射は二度としたくありません。」
治療への感謝の気持ちが全くないから副作用への拒絶反応だけが彼女の脳を支配する。
前回の注射の後、彼女がめまいを起こし30分ほどベッドで横になったのは先週既に知っている。しかし、難治性の神経痛の症状をほぼ完治させたというのに、その長所の大きさを受け入れず「めまいがしたからやめてほしい」というようなことを言われ、私はあまりにもがっかりした。
ちなみにこの患者とのつきあいは2年になる。最初の頃、彼女はあまりのわがままさに多くの職員に迷惑をかけていた。彼女は最近、やっとおとなしくなり、言われたとおりにしてくれる普通の患者のようになった。とても神経質で気が小さいこともわかっている。ただそれにしてもあまりに酷すぎる返答だった。
「宇野様、どんな治療にも副作用というものがあります。しかし、それを怖がって治療をしないでいると症状がどんどん進んで手遅れになるんですよ。現に右下肢の痛みはとれているでしょう?そんな些細な副作用を辛抱できないでどうするんですか?」
「でも、めまいが起こるなら注射する前におっしゃっていただかないと…」
まさに彼女はインフォームドコンセントのことを言っていた。こういうところはしっかりしている…。
「宇野様、この注射はリスクの高い注射です。めまいが起こったのはおそらく血圧が少し下がったからでしょう。こういうことはたまに起こりますが、この注射にはそれ以上のメリットがあります。副作用はどんなものにもあるし、それでも長所のほうが多いから治療をするんです。宇野様が怖がっている以上に私のほうがもっと恐怖と緊張感を持ってやっています。でもそこまでがんばらないと治らないんですよ。右脚の神経痛は…」
患者以上に私もがんばっている。しかし、それを理解してもらえない。
私はこういう患者が医療訴訟の原因を作るということをよく知っている。だからささいな失敗も許されない。注射も痛くさせてはいけない。トラブルの宝庫のような神経質で怖がりの患者にリスクの高い注射をする医師もこの世にまずいない。
しかし、これだけは事実なのだ。彼女が私のおもいきった治療を受けなければ、寝たきりへの歯車は日々確実に回転してゆく。そして私の手にも負えない領域に進む。彼女の娘は昨年乳がんで手術していて親子そろってこういう性格だから家庭でも親子関係はとてもぎくしゃくしていて喧嘩が耐えない。彼女が寝たきりになればこの家庭には地獄絵図が待っている。そこまでわかっているから私はハイリスクな治療をしている。彼女には見えない未来が私には見える。
「宇野様にした2回の注射はリスクの高い注射ですが、それで症状が治ったでしょう?そのメリットを考えないのですか?宇野様にこれを注射するために副作用のことやリスクについて説明するのが普通だとわかっています。ですがそれらを全て説明すれば怖がらせてしまい治療が前に進まないではないですか。」私はこの無責任な彼女に少し憤りを覚えた。たかが一時のめまい。メリットはそれにありあまる神経痛の治癒。しかしそこに感謝の気持ちはない。めまいが起こるなら最初からしてくれるなといわんがばかり。めまいはブロック後に十分に休息すれば防げるというのに。しかもめまいはインフォームドコンセントの一つに入れるかいれないかも微妙なほど軽い副作用だ。
インフォームドコンセントをしないで治療を行えば、それで起こった不具合の全責任を医者が負う。しかし治療をすすめるためには怖がらせるような内容を説明しないようにしなければならない。説明すれば怖がって患者は治療を受けないだろう。なにせめまい一つを嫌がるのだから。だからもっと他に不具合が出れば責任を私が一人でかぶってやらねばならない。このわからずやの患者の人生を救うために、私が責任をかぶるのだ。
私は心理学をやっているからよくわかっているが過度の怖がりは責任を逃れるという利得のために無意識に行われることが多い。怖がっている人に何かを命令する場合、「いやがっている人を無理やりさせた」ことになるので、それで起こったトラブルは命令した側に責任が発生する。このようにして命令した側に責任を負わせることで「命令させない」状況を作り出すことができる。これが怖がりの心理メリットである。彼女はなんて無責任な人生を送ってきたことか…それが垣間見られる。
彼女の未来に家庭で起こる地獄絵図。寝たきりへの一直線。それを事前に防ぐことは決してたやすくない。彼女にとっては「まだ歩けている」状態であり、リスクのある注射に踏み切る決心などあるはずもない。彼女が現実から逃げてばかりの無責任人生を送ってきたことは彼女の会話からわかる。そして私の治療からも彼女は逃げる。それを防ぐために細部のインフォームドコンセントを敢えてしなかった。それは私の軽犯罪の一つ? 訴えられれば犯罪が成立する? その犯罪の目的は彼女の未来の家庭の地獄絵図を救うためだ。
「怖い注射はしたくありません」
彼女のこの一言で私の行った重責を負う治療は価値のないものにされた。なんと虚しいことか。しかし、ここで私はあきらめない。リスクがゼロになるくらいまでに腕を上げればいいことだ。大道芸人もあれほどの曲芸をノーミスでできるではないか…。
インフォームドコンセント。これがそもそもわかってもらえる患者とはトラブルなど起こるはずもない。喜んでいろんな副作用を伝えよう。しかし、赤ちゃんのまま大人になったような常識も通用しない人、自分のことしか考えない甘えた人生を送った人にインフォームドコンセントを行えば、それは治療拒否と同意となる。患者も医者も治療を拒否するわけだからそこで治療は停止する。だからといって、だまって治療を押しすすめるのは犯罪にも等しい。私はその犯罪に手を染めている。
相手が子供なら説明はしない。親が納得すればいいから話は早い。しかし、子供の知能のまま大人になった若干認知症のある高齢者にはどう接すればいいのか?課題だらけだ。副作用を伝えずに治療するのは犯罪。犯罪を犯しても他人の地獄絵図を救うために尽くすか?私への賛否は分かれるだろう。それでも私は治療をあきらめない。こんなトラブルに毎日首をつっこんで仕事している。