西洋医学への不信
大学病院や専門病院など世界最先端の医療技術を受けても改善しなかった患者は2つの選択肢があります。一つは治ることをあきらめて西洋医学の「姑息的治療」にすがり続ける方法。もう一つはわらをもつかむ思いで西洋医学以外の治療法を探し始める方法です。つまり西洋医学一筋派と何でも試す派に分かれるわけですが、よほどの難治性でなければ「何でも試す派」になる人はまずいません。その理由は確実性にあります。西洋医学は一応「世界共通、治癒率一定、治療法が一定、費用一定、安全性一定」と見せかけていますので当たり外れがなく確実性が高いという認識があるからです。ですから西洋医学に不信感を持つなどの理由がなければ「何でも試す」ことはしません。何でも試すことは費用・信用・安全・労力などで危険を侵すことになりますので決意が必要で、敷居が高いのです。ところが西洋医学を受けて悪化したり、治らずに苦しんだりした人はようやく西洋医学の確実性や治癒率がマスコミによって誇大広告されていることに気づきはじめます。
情報操作は逃れられない
良心が残っている医師であれば「今の医学で救えない病気が大半」であることを受け入れます。ちょっとした痛みから精神疾患、高血圧や糖尿病、膠原病やアレルギーなどなど、根本的に治せる病気はほとんどありません。薬で抑えているだけであり、それを一生続ければ様々な弊害が出ますが、弊害の研究は常に後手ですので高齢になるほど被害者が増えるという現状にあります。しかしながら皆が「医者にかかれば健康が維持される」と思っているということは、すでに皆が情報操作されていることを意味しています。情報操作とは医学に都合の良い記事を誇張し、都合の悪い記事を目立たなくすることです。
医学は国家予算の何割も占める国を挙げての大事業です。国が民を統治するための戦略としての堂々1位ですので情報を操作せざるを得ない環境にあります。「全国どこでも質の高い医療を安い費用で平等に受けられる」という情報操作です。
私の診療所には毎日日本全国から患者が来院しますが、もし本当に「全国どこでも質が高くて平等」なのであれば、近くの病院に行けばよいでしょう。高い交通費と手間暇かけて通院する理由は、他では治らないがここでは治るという明確な理由があり、医療は決して平等ではないというのが事実です。
ところが国を統治するという意味では私のような医者が存在することは好ましくありません。国が最大の国家予算を割いて築いている威信を傷つけ、治安を悪くてしまうからです。そういう意味においては国民が情報操作されることは必要であり、私のような医師は密かに活動しなければなりません。このサイト内で活動する程度が丁度よいのであって、これ以上目立ってしまうと私は国の害虫になってしまいます。
信じてもらえない治療成績
私は精神疾患・認知症を改善させ、突発性難聴の治療においては明確な治療成績も出し、その他治らないと言われている難病の数々を改善させ、手術後の不具合をトラブルシューティングし、現医学では想像もつかないような治療成果をあげています。しかし信じられていません。この点において私の医療技術は教祖が手をかざすだけで難病を治してしまうのと同じです。信じてもらえないこと、現医学よりもはるかに治療技術が高いこと、治らないものを専門に治すことが共通しています。私は医学技術で治療し、教祖は超能力で治療する。その違いだけであとはみな同じです。信じる者しか救うことができないことも共通しています。
私は「信じてもらうこと」「認めてもらうこと」にやっきになり、いろいろと論文を書いてきましたが、最近は自己主張することにあまり意味がないことがわかりました。医療技術が浮世離れしてしまい、信じてもらわない方が無難であると思うからです。
浮世離れした医療技術
人工知能が発達し、そのうち医療ロボットが医者を超える日が必ず来るでしょう。しかし、それでも私の医療技術に医療ロボットが追いつくことは未来永劫ありません。それは私の医療技術には常に意外性を取り入れるからなのです。まず診断の際に、医学書が想定していない診断名を次々と列挙します。医学書にない病名は私が独自に命名します。私は毎日のように新しい病態生理、病名を独自の発想で考え出します。このサイトにも脊髄脊椎不適合症候群、症候性ALS、うなだれ首、自己免疫性捻挫など、新しい概念の病名を掲載しています。そもそも私は現医学という幼稚な学問ではカバーしきれていない病態が大部分であるということを前提に診断をしています。既存の概念にない病態は「想定して作る」ようでなければ「他の医師が治せない病気を治す」ことができません。このように診断の時点で医学書を超えており、プログラムで動く医療ロボットのプログラムが私のような医師の思考に追いつくことは永久にありません。創作力のある人間の頭脳は、常にプログラムの上を行くからです。
治療となるとさらに複雑です。注射の場所を0.1ミリ単位で変化させ、薬剤の分量、混合比、濃度などを変え、さらに治療間隔、回数を自由自在に変化させていきます。アプローチの方法も毎回少しずつ変えて最適な方法を探るなどします。このような変幻自在な治療は医療ロボットには不可能であり、かつ現在の医師たちにも不可能であり、私の治療技術は日々「浮世離れ」していきます。
医師たちは厚生労働省や大学病院の厳しい管理の元で働いていて、自由なことをさせてもらえない土壌で育ちます。よって創意工夫と変化を日課とする私と他の普通の医師たちは、その医療技術が日々離れていくことになります。
最初は私の弟子を作って、この医療技術を広めようと考えたのですが、技術の差が開きすぎると伝えることが難しくなり、最後にはあきらめとなります。
患者には信じてもらえない、医師には伝えられない、となれば、最後には「信じる者は救われる」医療を行うしかありませんが、それは教祖が行う超能力・霊力による治療と同じ立場です。
科学と宗教は同じ方向を向いている
釈迦は当時、弟子たちに「知識を知り尽くせば尽くすほど真実から離れる」と述べていましたが、それは現代科学の発展を考えると少し違うと思います。おそらく私たちの3次元世界以外にも高次元世界が存在し、時空を超えた大きな世界があると思われますが、現代物理学では、そうした高次元空間の存在にも思考が及ぶようになってきています。万物が波動であり実態がないということもアインシュタインが公式E=mc2で証明しましたし、人間の知識はまだまだ真実に程遠いのですが間違いなく一歩一歩と宗教界の神秘的な謎にも迫っています。医療の分野では気功師や霊能者が操る波動の解析がすでに始まり、そうした波動を治療に応用するための医療器械がドイツやロシアで開発されて発売されています。さらに英国では念じて治すヒーリングが国に認められているなど、着実に科学は宗教的な摩訶不思議な力にも追いついてきています。
今は、一部の選ばれし教祖(神が降りてきた者)たちにしか使えない霊能力でさえ、1万年後には科学的に波動の解析が成功し、機械の先端から出せるようになっているでしょう。そして霊体を写し出すカメラが開発され、器械を用いて霊と交信できるようにもなると思います。いずれ科学はこの世に存在している全てのオカルトを数式で証明できるようになると思います。
神・仏・霊などの存在、運や天候・人生の流れを変えることのできる力が科学で解明できる日が必ずやってきます。しかし科学は宗教を、宗教は科学を互いに蹴落とし合っています。この泥試合のために両者が手を組むことができません。なぜこれほどまでに対立するのでしょうか?
医療は人民統制の道具
人間の社会において安定した世を維持するためには人民の統制が一番重要であることは誰もが知るところです。医療は太古の昔から人を統制するために用いられてきました。国が巨額な医療費を投じるのは国民を従順にさせるための最重要手段だからです。同様に教祖が信者を集めて統制するには摩訶不思議な霊能力を用いて人々の病を奇蹟的に治します。命を救う力を誇示すれば、民は従順になります。このように教団でも国家でも医療は太古の昔から人々を統制するための道具として成り立っていました。医療は人を統制するための道具という役割があるため、西洋医学と宗教医学は当然ながら対立する運命にあります。宗教で国を統治する場合は手を組めますが、そうでない限りリーダーが二つ存在すると統制がとれません。だから互いが互いを蹴落とし合う必要があるわけです。
とはいうものの、西洋医学はたかだか数百年前から台頭してきた学問です。それ以前は圧倒的に宗教医学の方が立場が強く、ヒーリングやご加持の能力で国を支配することもできました。奈良時代には病に伏した皇后を加持祈祷で奇蹟的に治し信用させ、惚れさせ、天皇家を乗っ取ろうとした僧侶・道鏡の話があまりにも有名です。加持祈祷の力が人を支配できることを示した事件です。
時代が変わり科学が人々の命を救う手段としてトップをとるようになると、国が科学や大学を管理し、西洋医学が人民統制の道具として不動の地位を築きました。当然ながら教祖の用いる摩訶不思議な術は国家から否定されます。
ところがそんな西洋医学が台頭する現代においても一定の割合で呪術を使える霊能者が生まれます。そういう人は教祖となり教団を作ります。信者を集めるためにもっとも効果的なのはその呪術で人の命を救うことであり、事実、科学の進んだ現代でもそうして信者が増えていきます。教祖は当然ながら西洋医学で治らない病気を治し、西洋医学の短所を説き、西洋医学よりも我が術(神仏の力)の方が上であると信者たちに説明していきます。 このように宗教と国家は互いを牽制し合う宿命にあると言えます。
医学と宗教、どっちが有用?
宗教の、とりわけ密教のご加持の力は進行した癌でさえ沈静化させる力があります。実際に医療秘書Aの師匠で真言密教の阿闍梨であるO先生は自分の父の進行癌をご加持で消失させて担当医を驚かせたという実話があります。高松の藤田博茂先生は曼荼羅から採取した波動を用いて進行癌を6例改善させた実績を持ちます(「余命宣告からの希望の「がん治療」幻冬舎より)。このように医学的には治る見込みのない病気にもかかわらず、治してしまう摩訶不思議な力が存在しています。そして原因不明と言われている病気に対しては西洋医学よりも宗教的な呪術の方が勝ることが多いと言えます。ただし、強力な呪術を使える能力者は極めて稀にしかこの世に誕生しません。その方と縁を結ぶことは難しいことです。ですから万人を救う手段として呪術は劣ります。それでも、科学は、色彩・パワーストーン・曼荼羅などから放出されている波動を用いて「呪術に匹敵する力を模索し、誰もが一般的に波動治療を受けられるようにしよう」という研究が行われ、科学が呪術に追いついてきていることは確かです。
一方、現在の超高齢化社会を生んだのは20世紀の急激な医学の進歩のおかげであることは誰もが知るところです。宗教的な力ではこれほどまでに人を長寿にすることは不可能です。万人を救う手段としては西洋医学の方がはるかに宗教よりも上を行くことが明らかです。
信じなくても救われる医療 信じないと救われない医療
軽症の病気、原因がはっきりしている病気の場合は薬を内服するだけで、または原因を除去するだけで治癒してしまいます。この場合、医師を信じる必要はありません。ところが原因が不明の病気にかかってしまうと、信じるものがありません。医学書にも原因が掲載されていないので、医学書を信じることも不可能です。よって「私なら治せる可能性がある」と宣言する人の考え方を受け入れるしかありません。この場合、治療師の数だけ考え方の違いがあり、患者は誰を信用してよいのか見当がつかなくなります。
また、治りにくい病状の場合、治療師のアドバイスにしっかり従わない限り治りませんが、従うには大きなコストがかかります。誰を信用してよいかわからないだけでなく、信用した場合、それぞれに時間や労力・費用といったコストがかかるものですから2重苦となります。
しかも、重症な病気ほどゴールデンアワー(治るタイミング)が限定されていて、選択を誤ると二度と好機が訪れないだけでなく、症状が進行して戻りません。チャンスを逃すと3日で治るものを30年わずらうこともあります。
私は創意工夫をこらして、現医学では治らないとされている病気を奇蹟的に改善させることを生業としていますが、私の医術でさえ「患者が私に従わない場合、しっかり信頼しない場合」は治すことができません。これは宗教の呪術でも同じことであり、教祖のアドバイスを守り、教祖を信じきらなければ、どんなに霊能力が高い教祖でさえ治してあげることができません。
しかし、信じた治療・信じた治療師が正解なのかどうかは誰にもわかりません。最終的には運と縁に全てを賭けるしかありませんが、それは医学も宗教も同じです。原因不明の病気の場合、どんな情報もあてになりません。そうなると結局「治るか治らないかは運と縁」という味気ない話になります。
高次元波動
科学はいまだにブラックホールの謎を物理的に解明できておらず、高次元空間があることを想定してはいるものの全く未知です。病気の中には未知の高次元空間から流れてくる波動によって起こるものがあると思われます。このことを信じない科学者や医学者には「何も知らないで気楽なものですねえ。」と言わざるを得ません。3次元空間に住む私たちは4次元空間からの波動を防ぐ手段を持ちません。これは例えると、絵本を光で照らすようなものです。絵本は2次元空間であり、私たち3次元に住んでいる者は絵本を電燈で照らしてあげることができます。しかし、絵本の住人は、急に明るくなったのにその光がどこから来ているのか知ることができません。同様に4次元以上の空間から来た波動を3次元の私たちはどこから来ているのか認識することができません。3次元しか説明できていない現代科学で医学は成り立っていますから、高次元からの波動が病気の原因であった場合、全て「原因不明」とされてしまいます。
原因不明であっても、その波動を取り除く技能を持つ者にかかれば、その病気を治癒させることができてしまいます。高次元波動を操ることができる能力は「宗教的な力」の一種であり、波動を取り除く技術を「ご加持・祈祷」などと言います。ヒーリングや気功、パワーストーン、色彩療法、近赤外線療法、波動医学もその一部と考えられます。
これらが高次元である一つの証拠として「遠隔治療が成立する」ことがあげられます。距離が何百キロ離れていても、念じることで病気が改善するがあるからです。これは3次元空間以外に高次元空間が存在している証拠の一つになります。
遠隔呪術
遠く離れた人を念じることで治療ができることは逆の意味があります。離れた場所にいる人を呪って病気にさせることもできるという意味です。呪いは病気に限らず、食欲、性欲、不安、いらだちなどをも操作できますから、ライバルを蹴落としたり、好きな相手と恋を成就させたり、失脚させたり、事故にあわせたり、場合によっては命を奪ったり・・・ということが可能と思われます。その証拠をわざわざ示す必要はありません。なぜなら、既にそのような高次元波動による病気を治せる者が存在し、実際に治療に応用しているからです。治療法があるということは、その病気になった高次元の原因波動があると考えます。呪いは亡くなった者からも送られてきますし、生きている者からも発信されます。さらに言えば、海や山、土地、木、林、森、動物からも波動が発信され地球や太陽もそうですし、宇宙からもやってきますし、別次元の空間からも訪れます。実際にこれらの波動と交信できる能力を持つ人間は稀ではありますが一定の確率で出生します。特殊な波動と交信できるDNAを持って生まれた者は神や仏と呼ばれるような高次元の波動と交信ができ、その命により人々の救済に当たることがあります。そういう方が開祖者となり宗教を始めることがしばしばあります。信じないのは自由ですが事実として存在します。
このように人を遠隔で操る高次元波動というものが存在しているのですが、その波動の導きによって縁が生まれ、運が生まれ、病気も生まれます。そうした高次元波動に現科学、現医学はまだまだ追いついていけません。
私がここまで詳しく述べることができるのは、実際にそのような能力者と共に暮らし、能力者と共に治療をし、毎日観察しているからです。
しかし、どんなに優れた医学技術、優れたご加持の能力を持つ者が目の前にいたとしても、「信じることができるか?」「タイミングを逃していないか?」で救えるかどうかが決まります。
縁は医学ではどうもできない
誰と縁を結び、どれだけ深く信じ、アドバイスに従うか? で治せるか治せないかが決まります。よくこのHPのお悩み相談で「治る見込みはありますか?」と訊ねてくる方がいます。その答えは「どれだけあなたが私たちのアドバイスを素直に受け入れることができますか?」という質問の解にあります。前述したように、信じるには多くのコストがかかります。そしてあなたはこれまで何人もの医師・治療師に裏切られ、無駄な時間と無駄なお金を費やしています。その状態で私たちを信じる力がまだ残っていますか? という質問です。
「治る見込みがありますか?」と質問する方はいまだに私たちを信じ切るための材料をこのHP上から見つけ出すことができていないことを意味します。それはあと一歩というところで、何か見えない波動に邪魔されているのかもしれません。なぜなら高次元の波動から見れば私たちの行動は丸見えであり、私たちが呪いの波動を払える力があることもバレているからです。書き込んでいる人に猜疑心を沸かせるなどという手法は呪う側にしてみればたやすいことです。
医学と宗教の共通点は信心
さて、結論を言いますと、「医学と宗教の共通点は信じる心がなければ治せない」という点です。軽症の方であれば、運も縁も全く必要なしなのですが、難治性の重症の方を治すには必ず宗教的なご縁が要ります。現医学で治らないとされている疾患を医学で治すのであれば、それを治せる力量のある医師と縁を結び、全力で信頼していけるか?がカギになります。縁を結び、信頼することは宗教的な信仰心と深い関係があり、それを邪魔する強い因縁があるならば、まずその因縁を取り除いていかないと医師と縁を結ぶ前に破談になります。また、その因縁により、「医師を怒らせる、医師を不信がらせる、医師にみくびられる」ということが起こります。
医学に頼らず、宗教的に病気を解決していくとなると、重症の場合は親戚縁者から先祖まで、様々な因縁を掘り起こす必要がある場合もあり、これも教祖(スピリチュアルアドバイザー)を信じなければできることではありません。どうあがいても難病を治すには人を信じる力が必要なのです。
現医学では原因不明の難治性疾患になってしまったということがそもそも「信心をめばえさえなければ治せない」という宿命に落とし込まれたと考えてよいかもしれません。
治すのはあなた
私たちは医学の力も宗教の力も発揮することができる希少な存在です。その希少な存在を目前にして「治せますか?」と質問するという愚をおかしてはなりません。私たちはアドバイスすることはできますが、治すのはあなたです。変わらなければならないのはあなたです。治せるかどうかは私たちの力量に依存しているのではなく、あなたの信心や因縁に依存しています。そしてタイムリミットがあります。私たちが高飛車なのではなく、あなたが低姿勢にならなければ前に進みません。私たちを信用するに値するかどうかの判断材料はこのHP内にたくさん掲載してあります。その結果、信じる心が芽生えないのであれば、縁がなかったということを意味します。
制限時間
因縁を払拭するにはその原因を見つけ出すことのできる能力者と出会うことと、因縁に対処できる加持・祈祷の能力を持つ者、それぞれに出会わなければなりません。極めて高い能力者の場合、その両方を受け持てますが、そういう方は極めて希少で多忙でお会いできるチャンスがそうそうありません。また、私たちが因縁を払拭するチャンスを差し上げても、そのチャンスをつかめない人がおられます。チャンスが訪れる時間は限りがあり、時期を逃さないことが大切です。最後に「信心」に帰依する
原因不明・治療法なしの病気はあまりにもたくさんあります。もしも、その病気の根本的な解決策があったとして、その解決策をアドバイスした人の意見を信じることができるかどうかで、最終的にその病気が治るか治らないかが決まります。その人が述べる解決策は、真実であればあるほど「今までに聞いたこともない方法」であるからして、信じることは到底できないものです。「聞いたことのある解決策であるのなら、とっくに誰かが試していて、そして成功しているはず」だからです。結局、その治療法が、宗教的なものであったとしても、医学的なものであったとしても、「聞いたこともない方法」しかないわけですから、信じる以外に救われる方法はありません。
理解できるものを信じるのはたやすいのですが、「聞いたこともない方法=理解できない方法」ですから、それを信じることはとても難しく、信じることを周囲に反対され、あなたはキ○ガイ扱いされることでしょう。ですから信じるためには信心が不可欠なのです。
治療法が医学的であろうと宗教的であろうと、治らない病気を治すには「信心」が必要であることは事実であり、それがない方に治療法を述べたところで、まさに「馬の耳に念仏」です。
馬の耳に念仏を述べても害にはなりませんが、信心のない人は怒りや憎しみを私たちに向け、私たちは実害をこうむります。よって、治るための秘策を教えてほしいと言う方は、まず私たちに「自分は信心がある」「信じる勇気と覚悟と責任を持っている」という証拠を私たちに示す必要があります。そこから人生が再スタートします。
そして、解決策は「薬を変えれば治る」というようなたやすいものではありませんし、アドバイスを守らなければ一時的に治っても再発します。だから、根気がないと思われる方には最初から解決策を提示しないのです。
つまり、真の解決策は、どこをどう考えても、医学的であろうと宗教的であろうと最終的に「信心」を持つことから始まります。そして、難治性・原因不明の病気になっている方は、不思議なことに「信心」がないことが多いのです。逆に考えれば、この病気の根源は「信心のなさ」に由来するということなのでしょうか。あまりにも意味が深いお話です。
医師であろうが、教祖であろうが、難治性の病を治すことに全力を尽くした人は、必ずこの患者側の持つ「信心」の壁にぶつかります。