減速・停止時間差の法則

はじめに

これはあらゆる疾病における治療学の大原則です。簡単にいいますと、疾病に対して治療を開始したとしても、その病気の勢いが止まって治癒に向かい始めるのにはある程度時間が経過してからになるというものです。
これは大きな船が全速前進しているときにスクリューを逆回転にして反対に向かおうとしても、船は急には止まれず、そのまま進行方向に惰性で何十分も前へ進んでしまうことに例えられます。 船が小型であれば即座に逆方向に転換できますが、大型であればあるほど惰性力が強く、スクリューを逆回転にしたにもかかわらず反対方向に向かうまでに相当な距離を前進してしまいます。
疾病治療の考え方もこれと等しく、病気の勢いが強い急性期は治療を開始しても悪化を止めることはできません。病気の勢いが強ければ、治療を開始しているのにもかかわらず、病気はそのまま悪化します。 病気の範囲が広いほど、炎症の強度が強いほど病状の悪化は治療を開始しても長い期間止まりません。 この一見、当たり前のように思える理論ですが、医学教育ではこのような原則を教えていないため臨床現場では様々な誤解が生じます。

1.治療しているのに治らないと誤解されるケース

局所の炎症が拡大している急性期に炎症を抑える治療を行うと、その炎症の拡大速度は低下しますが、拡大自体は進みます。つまり治療をしているのに病状が悪化します。

誤解のケース

例えば抗生物質を投与しているのに患部がさらに化膿してきたという場合、医者も患者も「この薬はこのバクテリアには効かない」と早合点してしまいます。誤解は治療の中断・治療薬の変更という結果を招き、逆に多剤耐性菌を作ってしまうということにもなりかねません。 本来、病勢減速・停止時間差の法則を知っていれば医師も患者に「もう少しこの治療でがんばってください。1週間くらいすれば効果が現れてきますから」と患者を説得できたかもしれません。 もちろん素早い決断と変更が必要な場面もあります。が、病気には「少し我慢しなければならない時期があること」を認識しておくと、総合的な治療力が飛躍的に向上するでしょう。

2、治療薬のせいで症状が悪化したと誤解されるケース

病勢が強い場合、治療を開始した後も数日間、病状が悪化します。しかし最悪なことに、温度板などを記録していると、治療が引き金となって熱が上がっているように見え、まるで治療薬が病気を悪化させたと誤解されることがしばしばあるのです。病気の勢いがつきはじめた時期と、治療薬を開始した時期が重なる場合です。 炎症に苦しむ患者は、誤解も強烈で、「この薬を服薬したせいで症状が悪化した」と思い込みます。こうなると医師が患者をいくら説得しても患者は医師を信じません。それどころか「あの医者はやぶ医者だ」と周囲にいいふらし、名誉を汚されてしまうこともあります。
現在ではこうした「治療薬へのまちがった悪評」がインターネットに流れやすく、医者不振や治療拒否につながり、医療の障壁となっています。 医者も患者も病勢減速・停止時間差の法則をよく理解していないために世界で起こっている日常茶飯事な出来事です。

3、効かない治療が「効く」と誤解されるケース

人間には自然治癒力があり、医学はその自然治癒力を強化させて治療していくことが治療の原則です。どんな病気も自然治癒力のおかげで病勢は止まり、やがて治癒へと向かいます。一般に亜急性期とよばれる時期です。
亜急性期の病気ではプラセボでさえ治療効果が発揮されます。つまり、ミスマッチな経口薬でも、適所に入らなかったミス注射でも、病気の原因場所ではないところへのブロック注射でも、神社へのお参りでも、教祖様と面会したことでも病気が治ります。 よって亜急性期の病気の治療では患者も医者も「本来は効かない治療なのに効く」と誤解してしまいます。そして本当は無効であるのに「効果があると思い込んで多くの患者に同じ治療をしようとする医者」を作ってしまいます。
経口薬であればプラセボとの比較により、こうした誤解を避けることができますが、ブロック注射など手技的治療の場合、プラセボ手技というものが存在しないだけに、「効果あり」とされる間違った研究発表がなされます。手術もそうです。プラセボ手術との比較がないため、効果のない手術が「効果あり」と発表されることがしばしばあります。
たとえば、腰椎椎間板ヘルニアによる坐骨神経痛はベッド上で安静にしていれば自然治癒力が高まり、手術をしなくても治癒に向かいます。 よって、椎間板ヘルニアに対して有効でないミス手術をしたとしても、患者は回復に向かいます。ところが術者は「自分の手術が患者を治療した」と論文発表するので本当は無効である手術が有効であるかのように世間に誤解されてしまいます。 このような誤解を解く手段は現状の医学では存在しません。統計学ではデータ的には「効果が科学的に証明された」とされるため、科学的な嘘が科学的な真実として世に出てしまうのです。

本法則は医師のプライドを傷つける

病勢減速・停止時間差の法則は著しく医師のプライドを傷つける真実の法則です。特にブロック注射や手術など、手技を用いて治療する外科医のプライドを傷つけます。 その理由は手技にはプラセボ手技というものがなく、治療効果は比較研究ができず、「実は外科医たちの論文が科学的ではない」ことを露見させてしまう法則だからです。
単なる自然治癒力で患者が治ったのかどうか、それを見極めるには医者にとても大きな器、度量が必要です。 度量のない医者には、自分の手技が実は無効で、自然治癒力で勝手に治ったことを直視することは不可能でしょう。こうした背景がこの病勢減速・停止時間差の法則が広く一般的に普及しない理由となっています。 真に医学の発展のためには、病勢減速・停止時間差の法則を常に頭から切り離してはいけません。どうかこのことを医者も患者も忘れないようにしてほしいと思います。