進化は予定通り

宇宙には地球と同じような星が無数に存在し、歴史はさらに無限の過去が存在し、それらの星では現在の地球と同じように生物の進化と絶滅が繰り返されているでしょう。隕石が落ちて一つ残らず高等生物が絶滅した星もあれば、星を脱出するレベルにまで進化が発達し、隕石が落ちる前に他の星に移住した種もあるでしょう。なにせ時間と歴史はほぼ無限なのですから。
私たち地球の人種は、ようやく地球外へ飛び立てる段階にありますので、おそらく予定通りの進化を遂げていると思われます。
そして、地球外に逃げることのできない種は人間以外のすべての生物であり、これらの種を助ける義務が、地球を代表する人間に存在します。それは人間自体も、人間一種類だけで生命をつなぐことができないからです。植物も動物も微生物も人間が生き延びるために必要だからです。
しかしながら、すべての生命を地球外に運び出すことは不可能であり、地球外に脱出するにしても犠牲になる生命は必ず存在します。
犠牲無くして進化はないという当然の真実がそこには横たわっており、これまで生命が地球上に生まれ、そして死に、これを数えきれないほど繰り返したのも全て犠牲です。寿命というものは、そもそも次の世代の犠牲になるために設定されているものであり、寿命は1年という短いものから1000年という長いものまで、種によって設定が異なります。
死という犠牲がなければ進化はあり得ないわけですから、生物が命をつなぎ、やがて他の星へ移住するようになるまで進化するには死が必要です。そしてほぼ予定通り、人間は地球の周囲を周遊できるレベルにやっと到達しました。もうあと少しです。
ですが、中には、隕石が落ちて絶滅した星もあり、そしてとっくの昔に進化が完了して他の星に移住することができている種も当然ながら存在します。そんなことは当たり前に理解できる真実です。

進化に犠牲がつきまとう

地球上に人間と言う種が進化するまでに、他の多くの絶滅種が犠牲になっています。しかし、人間がその頂点に立ち、地球が滅亡する前に地球外に脱出させなければ、人間も含めて生物が全滅します。だから人間の進化が多くの生物の犠牲の上に立っていたとしてもやむを得ないことです。
命をつなぐには犠牲を伴います。それは何をどうしようと避けることのできない真実です。戦争が起こると科学が著しく発達しますが、これも考えてみれば多くの犠牲の上に科学の進歩が存在していることをあらわします。このように万物はつりあいながら進化していくわけで、もしも善人だけの国が出現すれば、その国は進化をやめてしまい、悪が強い国に滅ぼされて絶滅します。ですから、善と悪は常につりあっていなければなりません。
人間は科学を進歩させ、同様に善も発展させる種です。極めて利他的に生きる善人の鏡のような人もいるということは、その裏を返すと、人の命を何とも思わない利己的な人もいて、この世界はつりあっているということを意味します。進化と犠牲が表裏一体のように善と悪は表裏一体で切り離せません。ですから、善人のとして生きようと考えたところで、全員が善人の役割を演じて生きることはできないのです。

究極の進化を考える

時間が無限に続いていることを考えれば、地球よりも進化が進んでいる星が数えきれないほど存在し、そして星を移住できるまでになれば、その進化は止まることなく無限に続きます。では進化が無限に続くとどうなるでしょう? これはあまり難しくありません。生き物を遺伝子操作で作ることができ、ほぼ永遠の命を手に入れることができるでしょう。何万年と生きながらえることができるようになるでしょう。進化も無限だからです。
最先端を行く種は地球のような星を見つけては、そこに種をまき、自分たちが作った遺伝子がどう進化するかの実験も行うでしょう。しかもそれを観察している進化の頂点の者は寿命が想像を絶するほど長いわけですから高見の見物でしょう。私たちの科学は、そうした観察者・創造主が当然いることを推測できるレベルにまで発達しています。その創造主を神と呼ぶか仏と呼ぶかはどうでもよいことです。進化の頂点の者の科学力をもってすれば、地球に隕石を落として星を消滅させることなどたやすいことだと思われます。
さて、進化の頂点の者は神のごとく何でもできる科学力を備えているでしょう。そして究極の善行もできるはずです。慈悲も究極でしょう。しかしながら、究極の善が存在しているということは、究極の悪もまた存在していることを意味します。究極の悪は極めて利己的で、自分の快楽を満たすために、まるでゲームをする感覚で地球レベルの星を壊滅させて遊ぶかもしれません。